連合結成の真実


 張バクが挙兵に反対しているのなら、事実上無官の曹操が挙兵できるはずもなく、また配下の衛茲が私財を投げ出すのを見逃すはずもない。彼は恐らくこの時点で黙認していたと思われる。

 そして時代が動き始めたのはこの張バクの弟で広陵太守・張超からだった。張超は兄の元に反董卓挙兵の相談に向かった。しかし既に兄はその決意があったので、配下のゲン洪に指示し劉岱、孔由、張バク、橋瑁、張超とこの辺り一帯の地域の有力者の盟を取り付けた。時に曹操の挙兵に呼応し、あの袁紹にいち早く董卓打倒を進言した済北の相・鮑信も反旗を翻した。こうして関東一円の発起が出揃ったのだ。ここで疑問が出てくる。

〜連合軍の真のプロデューサーは誰なのか?〜
 演技の様に曹操の檄文は存在しないし、袁紹が軍議で盟主に立てられたという記述もない。この内容を読む限りでは、曹操の挙兵に触発されて、我先に!と追従したと読むのが賢明ではないだろうか?この時代は大義名分や民衆の名声が大きく権力闘争を左右した。曹操の大敵を恐れぬ忠義の挙兵に乗り遅れ、名声を失えば後々の汚点となる。または野望の妨げとなる。こんなとこではないだろうか?もっとも諸侯の追従が曹操の思惑通りだとしたら、本当に先見の明があったと言わざるを得ない。
 その証拠に曹操は自らの私財と衛茲の協力を得ても五千の兵しか集まっていない。この数で董卓十数万の軍勢を相手にするのは余りにも無謀で不自然だ。となると大方の予想通り反董卓連合は曹操がプロデュースしたという結論(結果論?)に達するのか?

 しかし恐らくは曹操も予想してなかった動きが南で起こった。主役は袁術の援助を受け、長沙一帯で善政・反乱抑圧に勤めていた長沙太守・孫堅だ。袁術は南陽に逃げていたため、この孫堅を懐柔し南から兵を挙げた。こうして反董卓連合軍の面々は関東一帯と南陽から都・洛陽を目指す事になる。その面子は…

後将軍・袁術
キ州牧・韓馥
予州刺史・孔抽
エン州刺史・劉岱
河内郡太守・王匡
勃海郡太守・袁紹
陳留郡太守・張バク
東郡太守・橋瑁
山陽郡太守・袁遺
済北国相・鮑信

 という顔ぶれだった。

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実録!反董卓連合軍