孔抽あたりは最初から董卓を恐れ、殆ど活動していない。
王匡は董卓からの懐柔の使者を殺してしまい、その使者の親族から協力を依頼された曹操から切り殺されている。
袁紹に至っては、あろうことか韓馥と共謀し劉虞を天子にすえようと画策したのだ。しかし劉虞はこれを断固拒否したため、計画倒れに終わっている。
この動きを知った袁術も袁紹に不信感を募らせ、一気に連合は崩壊の一歩を辿ろうとしていた。
さて、主役の曹操に目を向けよう。曹操は何度も叱咤激励したのに一向に動こうとしない連合軍に業を煮やし、衛茲・済北相鮑信と共に軍を西に向けた。そしてベン水で董卓軍の武将・徐栄と遭遇する。だが、成果は散々な結果だった。この戦で曹操は衛茲・鮑信の弟を戦死させ、鮑信も重傷・曹操自身も流れ矢を受け、馬をも失い、従弟の曹洪の馬を借りて逃げたほどだった。しかし、大軍を相手に夜中まで善戦した曹操軍を手強いと感じた徐栄は
「我等を攻めることは容易でないぞ」
と言って、追撃を止め引き返したという。
敗走した曹操は袁紹らのいる本陣に着いたが、そこでは諸将が酒宴を催していた。曹操はそこでも叱咤している。
また袁紹から劉虞を天子にと相談された時は
「どうか皆さんは北(劉虞がいた幽州)を向いてください。私は西(長安)を向きましょう」
と皮肉を言って一蹴した。
曹操の敗退は即ち彼自身の連合における発言力の無力化と連合の崩壊を助長させてしまう。ついには元々仲の悪かった、劉岱と橋瑁が反目しあい、劉岱は橋瑁を殺し、別の人間を太守に立てるなど、連合の崩壊は明らかとなった。しかしこの代わりの太守が無能で黒山の反乱軍に攻められると、東郡は陥落寸前まで追い詰められた。これを救ったのが曹操で、この活躍を認められて、東郡太守に任じられ、曹操は初めて地盤を持つ事になったのだ。
また袁紹がちょうどこの頃、韓馥に圧力をかけ、キ州を奪取している。もうこの頃には連合は全く形もなかったと言えよう。
王允と呂布が董卓を暗殺するのは、この直後である。
ちなみに連合が崩壊して、袁紹と公孫賛が争いだすと、董卓は朱シュンを派遣して、洛陽を取り返している。その後、李カクらを駐屯させた為、暗殺時に側近がいない状況を自ら作り出したという訳だ。