白馬義従


 袁紹の河北制圧を語る上で、避けて通れないのは白馬義従・公孫サンの話しである。ここでも先ずは彼の足取りから追ってみようと思う。

 公孫サンは遼東の長史(事務副官)として、北方の異民族や黄巾賊討伐の任務に当たっていた。彼は戦では常に白馬に乗って戦い、敵を追って矢を放てば百発百中、疾走する敵を生け捕りにすることも少なくなかった。異民族たちは、
「白馬を避けよ」
と注意しあい、それを耳にした公孫サンは白馬ばかり数千頭を揃え、騎射のうまい兵を配して精鋭部隊を組織し、『白馬義従』(義によって従う者)と名づけた。異民族たちも公孫賛を『白馬長史』と呼んで恐れていたとある。
ある時、公孫賛は数十騎を率いて辺境の砦を視察した。その途中、数百騎の鮮卑賊を発見し、咄嗟に隠れ部下を叱咤した。
「ここで突破しなければ、皆殺しにされるぞ」
 自ら矛の根元に剣を結びつけて、真っ先に敵中に飛び込み、前に後に敵を突きまくって、何十人も殺傷した。こちらも部下を半分失ったが、何とか脱出にも成功し、鮮卑賊はこれに懲りて二度と辺境を侵そうとはしなかったという。
 ちょうどその頃、遼西郡では烏丸族の丘力居と共に張純という武将が反乱を起こし、薊中を荒らしまわっていた。公孫サンは部下を率いて張純を見事敗走させ、この戦功で騎都尉(近衛騎兵隊長)に任命されている。

 こうして、5〜6年に渡り、公孫サンは異民族や反乱分子の制圧を繰り返し、多くの異民族を帰順させ、力を付けていった。しかし、さきに名前の挙がった、烏丸の丘力居だけはゲリラ的な動きで、翻弄しこれを阻止することが出来なかった。彼の活動は青州・徐州・幽州・キ州に及び、略奪の限りを尽くしていた。異民族を力でねじ伏せた公孫サンに対し、もう一人異民族を恩恵と施しで帰順させた人物がいた。東海郡の刺史・劉虞である。朝廷は彼を起用すれば、大軍を動かさずに辺境を安定させることが出来ると、劉虞を幽州牧(総督)に任命した。劉虞は着任後ただちに異民族に使者を送り、利害得失を説いて帰順させようとした。これに丘力居は快く応じ、帰順の意を表明したのだ。強攻策を取り続けてきた公孫賛は当然これがおもしろくなかった。公孫サンは劉虞の策を妨害する為、密かに帰順の使者を待ち伏せし、殺害しようと試みる。が、これは使者がいち早く察知した為、劉虞にこの行動が露見してしまった。驚いた劉虞は各方面の駐屯部隊を引き上げさせ、公孫サンの軍を孤立無援の状態に陥れた。

 この問題が一段落すると、今度は董卓が洛陽で猛威を奮う様になっていく。関東では袁紹を盟主とした連合軍が発起し、董卓は都を長安に移した。この頃、連合軍では袁紹とキ州牧・韓馥が相談して人望と名声のある劉虞に即位してもらおうと動き始めた。しかし劉虞はどうしてもこれを受けようとしない。そこで袁紹らは録尚書事(皇帝政務秘書取締)に就き、全権を掌握するように勧めたが、これも劉虞は固辞した。
 話しを献帝側の方に移してみよう。献帝は機能しない朝廷を憂い、どうしても洛陽に戻りたかった。そこで密かに侍中だった劉虞の息子・劉和に命じて、父の元に行き、その軍勢を率いて迎えに来るようにと図った。劉和は袁術領を通った時、献帝の意向を袁術に打ち明けた。時代の歯車は、混沌に向かって回り始めようとしていた。

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実録!河北統一戦線