天子を名乗った後の袁術は他のところでも語った様に、諸侯を敵に回し、呂布に次いで曹操に敗れ、行き場を失ってしまう。そこで配下武将の雷薄・陳蘭が篭るセン山に逃げたが、何とそこでは彼らに受け入れを拒否されてしまう。ついに袁術は途方にくれ、同族の袁紹を頼ろうとした。袁紹とは、長い間反目し合ってきたが、自分が追われた曹操と雌雄を決するべく、高まってきた気運に、同族のよしみも手伝い、受け入れてくれるだろうと考えた。しかし、それだけではない。王沈の『魏書』によれば、袁紹に天子の称号を送ろうとしたことも記されている。
「漢室は、とうの昔に有名無実。献帝など重臣どもの操り人形に過ぎません。今や豪勇達が力ずくで領土の取り放題。これぞまさしく周末の七国争奪の再現でなくてなんでしょう。強いものが天下を取るーこれあるのみです。
されば、我が袁家が帝位に就くのは当然。これは瑞兆でも明らかな通りです。今兄上はキ州・青洲・幽州・併州をあわせ持ち、支配下の住民は百万戸にものぼる。兄上を超える有徳者なしというべきです。曹操ごときが無力の帝室を担ぎ、残り火をかきたてようとあがいたところで、あれは既に消えたもの。無駄な努力というものです。」
袁紹はひそかに頷き、これを受け入れるべく、青洲の長男・袁譚に指示した。袁術はようやく身の置き所を見つけ、北に向かって歩き始めるのだが、彼が青洲に辿り着く事はなかった。
道中、病を患っていたうえに、兵糧がついに底をつき、寿春の北800里の所にある江亭で、炊事係に尋ねたところ、あるのは僅かに麦くず三十石あまりだったという。折りしも真夏の暑い盛り。
「蜂蜜がなめたい」
と袁術は所望したが、もはやそれはないものねだりだった。欄干のついた寝床に腰を下ろした袁術は、しばらくフーフー肩で息をついていたが、やがて自嘲の叫びをあげた。
「何というざまだ。俺ともあろうものが…」
とたんに彼はベッドにつっぷし、一斗あまりも血反吐を吐いた。これが袁術の最後だった。袁術の妻子は、元の部下であった廬江太守の劉勲を頼ったが、後に孫策が劉勲と戦って勝った時、今度は孫策に引き取られた。袁術の娘は孫権の後宮に入り、袁術の息子・袁ヨウは郎中までのぼった。さらに袁ヨウの娘は孫権の息子・孫奮の嫁になったのは皮肉だろうか?
曹操は結局最後まで、帝位に就くことはなかった。劉備は漢に代わり、自らが漢を引き継いだ。孫堅は洛陽上洛後、漢のお墓を整備した……最終的に、三国志の時代を築き上げたのは、漢に忠誠を誓った忠臣達だったことは、後々袁術が知ったら、悔しがることであろう。
こうして、三国志一の野心家・袁術の波乱の一生は幕を閉じた。河北の統一から、袁術の死まで、結局は曹操が大国を築く為の布石だったと今なら言えるだろう。最終的にここで出てきた全ての土地が魏の国に帰順するわけであるから、過言ではない。