さて、いよいよ兵を挙げた公孫サンにキ州の長史達はこぞってこれに呼応し始めた。公孫サンの進軍を止める者はなく、各地の門は開けられ開城されていく。公孫サンはさらに平定した、キ州に厳網・青州に田楷・エン州に単経を刺史として送り込み、末端まで支配体制を固めた。公孫サンの元にいた劉備は青州の田楷への救援部隊として、従軍している。
話しはそれるが、趙雲はここで劉備軍の騎兵隊長として、初めて一緒に行動している。この時から、二人の仲は良く、お互いを高く評価していたが、戦の途中で趙雲は兄の喪の為、帰郷している。この別れを劉備は惜しみ、手を握り合って涙したという。実際に趙雲が劉備配下となるのは、この時戦っていた袁紹の元に身を寄せている時である。何と数奇な運命か。
話しを元に戻そう。懐柔策をあっさり拒否された袁紹はついに軍を挙げ、公孫サン討伐に乗り出す。両軍は界橋の南二十里で激突した。
公孫サン軍は歩兵三万余が方陣の形に展開し、騎兵が五千ずつ左右の両翼を作る。中堅は親衛隊の白馬義従、これが左右両翼に分かれ、左翼は敵の右翼を射、右翼は敵の左翼を射る態勢を取った。頭上にたなびく旗物、色鮮やかな兜、天も地もまばゆいばかりに照り映えたという。
対して袁紹は僅か八百の軍を麹義に任せ、これを先鋒とし、強弩隊千人が、両側からこれを援護する。その後に袁紹が数万の歩兵を擁して、本陣を構えた。ここで注目すべきは、袁紹軍の先鋒を任された麹義という人物。彼は長い間涼州にいたため、騎馬隊の戦いに精通していた人物である。その部下も精鋭揃いだったという。
敵陣手薄なり―そう見て取った公孫サンは、一気に踏み潰さんと騎兵を繰り出した。迎え撃つ麹義軍は、全員が盾の陰に身を隠し、じっと動かない。あと数十歩…麹義の軍が一斉に身を起こし、歓声を上げて突っ込む。舞い上がる砂埃。一斉に強弩も発射される。必中必殺、無駄矢はない。一気に逆襲して敵陣まで突っ込み、公孫賛軍の厳網をはじめ、挙げた首級は千余。公孫サン軍は散々に打ち破られ、歩兵も騎兵も散り散りになって本営に帰還するものすらなかったという。公孫サン軍の殿が界橋の橋を死守しようとしたが、勢いに乗った袁紹軍はこれも破り、ついに本営の門も突き破り、一日にして公孫サン軍は撤退を余儀なくされた。 ちなみに厳網に関しては公孫サン伝では生け捕られた事になっているが、ここでは袁紹伝の斬られたという説を採用している。
余談だが、界橋はこの戦いによって有名になり、『袁公橋』とも呼ばれているという。実際に今では橋は架かってないらしいが、演義でもここで趙雲が初登場し、劉備らと初対面する場所になっている。しかし実際には劉備軍と趙雲は前述通り、この戦いには直接関与していなかった。