I方寸の地、そして…
惨敗を喫した劉備は、江陵に逃げるのを諦め、道を東へ向かった。漢津の渡し場に何とか辿り着いた時、折りよく流れを下って来た関羽の船団と出会い、ベン水を渡る事に成功する。この時、劉備の傍にいたのは諸葛亮・張飛・趙雲らと数十騎だったという。さらに江夏に駐屯していた、劉キが一万余りの援軍を率いて駆けつけて来たので、共に夏口へと向かった。
さてこの戦の中で、大量の民衆が捕虜として曹操軍に降ったと話したが、この中にあの徐庶の母も含まれていた。そこで徐庶は劉備に別れを告げ、自分の胸を指差して、こう言った。
「私が将軍と天下統一の事業を進めてきたのは、この方寸の地(一寸四方の場所。この場合、心臓を指す)によったものでしたが、今老婆を曹操に捕らえられ、方寸も乱れております。もはや将軍の幕下にいても何の役にも立ちません。ここで失礼させてもらいます」
こうして、徐庶は曹操の下に降っていった。三国志演義の名場面・徐庶と劉備の別れは、実際にはこういった場面だったのだ。
8月に出兵した曹操の軍は僅か一ヶ月で殆んど血を流すことなく、肥沃な荊州の地を手に入れた。ちなみに長い間、献帝(曹操)の指示を無視し続けた劉章もこの時に初めて徴兵命令に従っている。一方、混乱の荊州にこの頃足を踏み入れた一人の男がいた。魯粛子敬だ。魯粛は孫権に以下の点を自ら進言し、その使者として、やってきたのだ。
1、劉表の跡目の情報把握
2、劉備が荊州の新政府と協力的なら我らも協力する
3、曹操に先手を打たれる前に、荊州・劉備の両方と同盟しておきたい
しかし魯粛が荊州に着いた頃にはすでに劉ソウは曹操に降伏し、劉備は逃亡していた。魯粛は長坂でようやく劉備に会えたと呉書・魯粛伝には書かれている。情勢を考えた魯粛は劉備に孫権との同盟を勧める。劉備はこの提案に大いに喜だともある。夏口に着いた劉備は押し寄せてくる曹操の圧力に対抗すべく、呉に向けて諸葛亮を使者に送った。曹操・劉備そして孫権…三者三様の思いが、一つの大きなうねりになろうとしていた。そして…時代は、三国志史上最大の戦に向かって突き進む事になる。
完