E劉キの憂鬱


 袁家を降し、ついに南へと目を向けた曹操は、荊州攻略の策を荀イクに相談した。
「今、中原の地は平定され、南方は自分が窮地に立たされているのを自覚してます。この際、堂々と進軍させる大軍を動かす一方で、軽装の兵を間道づたいにに進め、相手の不意を突く事です」
 曹操はこの策を受け入れ出兵した。208年8月の事だった。

 曹操出兵より少し前、荊州はお家騒動で揺れていた。劉表は末っ子の劉ソウを寵愛し、彼を跡継ぎにと考えていた。これには、劉ソウの母である劉表の後妻蔡夫人とその弟・蔡iや外甥の張允の圧力も効いていた。しかし彼らには長男の劉キが邪魔だった。日ごとに身の危険まで感じた劉gは、尊敬する諸葛亮に相談をしようとしたが、諸葛亮はそれに対して応えてはくれなかった。この事情を把握していた諸葛亮は自分や劉備が騒動に巻き込まれない様に、人目を気にしていたのだ。劉キはある日、諸葛亮を裏の庭園に誘い、共に高殿に上がって酒を飲んだが、その間に近臣に命じて席をはずさせ、おもむろに切り出した。
「今は何を言われても天にも地にも届きません。先生のお言葉は私の耳に入るだけです。これならお教え下さってもよろしいのではありませんか?」
 ここで諸葛亮は春秋時代の晋の王子の兄弟の話を例に出し、知っているかと問うた。国内にいて殺された申生と、いち早く国外に亡命して生き延びた重耳の話しだ。劉キはこうして諸葛亮の考えを理解する事ができた。折りしも、江夏太守の黄祖が孫権に殺されたので、自らその後任となることを申し出て、首尾よく江夏に逃げ込む事が出来た。
 また劉キに関してはこんな話しが残されている。劉表が病に倒れたのを聞きつけ、親思いの劉キは早速駆けつけたが、二人を会わせては、後継者問題に支障が生じると蔡i・張允らは慌てて門を閉ざしこう言った。
「お父上があなたを江夏太守にしたのは、荊州東境を死守する為。その任務は重要です。ところがあなたはその兵を捨てて帰ってきた。お父上はどんなにお怒りになることか。親心を傷つけて病状を悪化させる。これに過ぎる不孝はありませんぞ」
 劉キは涙を流しながら立ち去ったという。この話を聞いて涙を流さない荊州の民はいなかったという。


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