反董卓連合軍を語るには、黄巾の乱まで遡る必要がある。伏線はさらに前まで遡らなければならないが、キリがないのでここから始めよう。
当時の中国の皇帝はなぜか短命な者が多かった。その為皇帝が幼い頃は外戚が、成人してからは宦官が政治の実権を握っていた。…なぜか?皇帝が幼いと当然その母の皇太后が発言力を持つわけで、その母方の縁者が外戚だったので、要職につけていたのだ。
しかし皇帝が成人すると外戚を疎ましく思い、当然自分の側近を置きたくなる。それが宦官だ。
宦官は皇帝の後宮(ハーレムですね♪)に勤める去勢された男子で、幼い頃から皇帝と共にいたので、皇帝から見たら『遊び相手』・『勉強の先生』という関係なのだ。こうして後漢では外戚→宦官→外戚という実権のループが出来上がっていた。
そしてこの時機に大将軍として君臨していたのが外戚の何進である。184年に起きた黄巾の乱において、大将軍の役職を得た何進は事実上軍事部門の最高責任者にあった。
しかし霊帝は黄巾の乱を教訓として、『西園八校尉』という役職を新たに設け、軍事の強化を図った。これも宦官の横暴だったのだろうか。面白くないのは宦官に要職を奪われた何進だ。何進は黄巾の乱で皇輔嵩ら配下の活躍もあり、名声を高めていた。宦官はこれを疎ましく考えたのだろう。
さらに何進Vs宦官の構図を決定づけたのは、弁皇子と協皇子の後継問題だった。兄の弁皇子は何皇后の息子で何進の甥にあたる。もちろん何進はこちらを推していた。一方弟の協皇子は後宮にいた王美人(美人というのは女性の役職)の息子で母は何皇后に暗殺されているが、本人は霊帝の母である董皇后に守られた。霊帝は病気になり死の床に着いた時、協皇子を宦官に預けている。霊帝が崩御した時、弁は14歳、協は9歳だった。協を帝に置きたかった宦官はついに弁の後見人である何進の暗殺を計画する。しかしこれは未然に露見し、阻止されてしまった。そして弁が少帝となり即位したのだ。
暗殺を企てられた何進はさらに恨みを募らせていたが、これに『宦官抹殺』を進言する者がいた。
何進の懐刀・袁紹だ。