混乱の都と董卓


 袁紹もまた宦官を恨んでいた。167年・169年と二度に渡り、宦官達は民衆や朝廷に多大な影響を及ぼしていた、名士達を弾圧し、追放している(党コの禍)。名士中の名士でエリートだった袁紹はそんな宦官を恨み、自らの出世の邪魔だと感じていた。その袁紹の宦官撲殺案を何進は受け入れた。

 袁紹はこの時全国各地の猛将・群雄達を洛陽に呼び寄せた。ここでようやく彼の名前が出てくる。有史以来の最大の極悪人・董卓だ。董卓はこの時既に悪名高く、盧植なども彼を招集することに反対しているが、何進はこれを聞き入れることなく、彼を迎え入れた。それはなぜか?じつは宦官はこの計画に密かに気づき、何太后を懐柔していた。何太后から宦官撲殺を反対された何進は何太后に圧力をかけるには、悪名高い董卓が一番だと考えていたのだ。こうして董卓は何進の召集を受け、上洛するに至ったのだ。

 ところで、袁紹が描いた宦官撲殺のストーリーだが、2千人という人数ながらも、武器も持たない政治家を虐殺するのに、全国からわざわざ群雄達をこぞって招集する必要があったのか甚だ疑問だ。曹操はこの時の袁紹について
「宦官は昔からあるものだ。政治に参画する権限を与えなければ、悪さも働けないはず。元凶を誅殺するには、一人の有能な裁判官さえいれば済む事」
 と笑ったという。袁紹の小心さが出たエピソードだろう。

 その後、何進は代表格だった宦官の一人(ケンセキ)を誅殺する。この事で宦官もいよいよ切羽詰り、何進に先手を打ち、何と直接暗殺してしまう。少帝の即位から僅か13日後の事だった。
 怒った袁紹ら何進の腹心は一気に宮中に突入して火を放ち、宦官と見れば皆殺しにした。去勢された宦官は髭がなかった為、それが目印となりその日のうちに宦官2千人が撲殺されてしまうのだ。
 皇帝兄弟を連れた幾人かの宦官は僅かな人数で洛陽を脱出しようとした。しかしその道中でも追っ手によって宦官は斬られ、ついには幼い二人の皇子は洛陽に帰ることを決意した。

 そんな時、上洛する途中の董卓一行と出会うのだ。董卓は二人に何が起きたのか問うたが、兄の弁は董卓とその軍に恐れおののき、口も利けなかったという。しかし弟の協はその一部始終を毅然と答えた。董卓はこれを見て「これは使える」と感じた。

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実録!反董卓連合軍