董卓の野望


 189年8月董卓はついに少帝と陳留王協を連れて洛陽に上洛した。董卓の軍勢は3千人ほどであったが、それでは洛陽にいる軍とこれから上洛してくるであろう各地の豪傑達を屈服させることはできないと考え、策を練った。夜陰に乗じて一旦上洛させた軍をまた城外に出し、翌日改めて入城させたのだ。これを何度か繰り返すうちに、やがて「洛陽には董卓の大軍勢が来ている」との噂が広まっていった。これにより、各地の豪傑達は洛陽に近づけなくなり、董卓は次第に朝廷内・政府内における発言力を強めていったのだ。

 さて董卓は最初から悪性を振っていたのか?実は正史にはこうある。
 董卓は宦官から失脚・排除されていた名士たちを次々に推挙・登用し、政治の最前線に復職させている。荀イクの叔父である荀爽などは僅か95日の間に平民から司空という最高官位にまで登り詰めている。これは董卓が名士達の歓心を買おうと躍起になっていた事実が垣間見える。恐らく荀攸などもこの関係で当初董卓の配下にいたものと思われる。
 しかし名士達は董卓の期待に応えたのかというと、それはなかった。後に述べるが、董卓と対立し中央政府を出る事になった袁紹を勃海太守に推挙している事からもそれは分かる。実は反董卓連合の諸侯にはこういった名士達の推挙で取り立てられた人物が多かったのだ。つまり董卓は名士達の支持を得て安定した政権を樹立しようとしたが、名士達は董卓の権勢力に基づいて国政を私物化しようとした姿勢に反対したのだ。これによって董卓の横暴は益々過激になっていくのだ。

 董卓はあっというまに大尉に昇格し、軍権・政権を手中に収めると、少帝を廃立して献帝を擁立した。これが少帝の弟の協だった。さらに弘農王とした弁とその母、何太后を暗殺するという暴挙に出た。この頃には董卓の精鋭部隊も洛陽に到着しており、朝廷の大混乱と合わせ、洛陽の都は手の付けられない状態になっていった。これから先の董卓の悪行にはここでは触れないが、まさに悪逆非道。何度も言うが、陳寿は正史の中で彼を『有史以来の最大の極悪人』と評している。

>>次へ


実録!反董卓連合軍