さていよいよ三国志を彩る英雄達を動きを追ってみよう。
まずはこの頃名門の家柄をフルに発揮し、大将軍・何進の下、司隷校尉(警視総監)に就いていた袁紹。自らの下策で董卓を招いてしまった袁紹だったが、周りの目は打倒・董卓の旗頭として期待されていたのが沢山の文献で分かる。しかし董卓は前項の様に名士を重用しようとした。董卓は袁紹を呼び寄せ、相談を持ちかけている。内容はあの献帝擁立の件だ。つまりこの重要事項を相談するほど、董卓は袁紹を信用していた(しようとしていた?)と思われる。袁紹はその相談に賛成を装いながら、
「これは国家の重大事です。叔父にも相談しなければ」
と言った。対して董卓は
「劉家(漢室)の種など、残す事もない」
と豪語した。
それには袁紹も何も応えず、悠然と会釈してその場を立ち去ったという。この直後、袁紹は密かに洛陽を脱出し、キ州へ逃げている。それを知った董卓は当然激怒した。しかし董卓が懐柔した(しようとした?)名士達は
「袁紹は天子の廃立という重大事を前に震え上がって逃げ出したのでしょう。他意あっての事ではありません。ここで袁紹を討つ軍を挙げる事は、関東一円に名声を誇る袁家を敵に回すことになり、かえって面倒なことになります。それよりも袁紹をどこかの太守にでもして、喜ばせ恩を売りましょう」
と袁紹をうまく擁護した。董卓もこれに納得し、彼を勃海太守に任命している。
袁紹と同じく、当時洛陽にいた袁術は折衝校尉(近衛司令)・虎ホン中郎将(親衛隊司令)という要職にいた。じつはこの時点では、袁術が最も官位が上だった。それは正史の連合軍の紹介の中でも一番最初に名前が挙がる事からも分かる。董卓は袁術も重用しようとし、後将軍まで位を上げた。しかし袁術も董卓を恐れ、南陽軍に逃げ込んだ。折りしも南陽軍の太守・張シは長沙太守の孫堅によって殺されたばかりだったので、袁術はここを本拠地にする事ができた。
何進に騎都尉(近衛騎兵隊長)として地方各地で兵隊を募集していた鮑信は洛陽に帰った時、ちょうど董卓が上洛してきた時と同じだった。鮑信は袁紹に董卓を洛陽の混乱に乗じて、討つように進言している。しかし袁紹は董卓を恐れ、踏み切れなかった。これを見ていち早く故郷に引っ込んでいた。
そしてもう一人この時機に洛陽にいた人間がいた。曹操孟徳、その人だ。