それぞれの挙兵


 曹操はこの前に洛陽の北武尉(警察署長)に任命されていたが、権力の有無に関わらず厳粛な警備をしていたので、宦官や重臣達に疎まれ、昇進させて地方に左遷されていた。しかし黄巾の乱の活躍で朝廷に認められ、洛陽に召され典軍校尉(第四親衛隊司令)の職に就いていたのだ。
 当時36歳という年齢で何の後ろ盾もなく才能でのし上がってきた曹操を董卓は認め、自分に協力させようとしていた。曹操をギョウ騎校尉(近衛騎兵司令)に任命するよう上奏している。だが曹操はこれを嫌い、変名を使って都を脱出、間道づたいに故郷を目指して東へ走った。虎牢関を超えた時、一旦捕らえられ、護送される目にあったが、この街に曹操の知り合いがいて、何とか助けられた。またかねてからの知人の家にお世話になった時、料理をする人達を暗殺の刺客と間違えて惨殺するのもこの逃避行時である。
 皇太后と弘農王(少帝)を董卓が暗殺した頃、陳留に逃れた曹操は、私財を投げ出して義勇兵を募り、反董卓の軍を挙げようとした。ここで衛慈という張バク配下の武将が登場する。彼は以前より曹操を高く評価し、洛陽から逃げ帰り、反董卓の軍を単身で挙げようとしていた曹操に大量の私財を投入している。こうして曹操は189年12月、ついに陳留で挙兵した。

 ここからは時代の流れに沿って起きた出来事を紹介しよう。曹操が挙兵する少し前、勃海の太守として袁紹を警戒する者がいた。勃海郡が所属する、キ州牧の韓馥だ。韓馥は最初から袁紹が董卓に謀反を起こす恐れがあると睨んでいた為、袁紹を監視して動きが取れないようにしていた。韓馥は臆病な性格で自分の州から反乱の軍が挙がれば、董卓側につくべきか袁紹側につくべきか悩んでいたのだ。
 韓馥を動かしたのは意外な人物だった。東郡太守の橋瑁である。彼は三公の偽文書を作成し、反董卓の兵を挙げるべしと檄文を韓馥に送っている。これを信じた韓馥側は配下の劉子恵の進言もあり、ついに決意した。ようやく袁紹が挙兵できる体制が整ったのだ。

 一方曹操側の方はどうだっただろう。兵も少数ながら用意したが、袁紹の様に警戒する陳留の責任者はいなかったのか?曹操が挙兵した陳留の太守はあの衛茲を擁していた張バクだ。彼はどういう態度をとったのか?

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実録!反董卓連合軍