一触即発


 韓馥は元来臆病な性格だった。また保身を最優先させたのであろう、この提案にすぐに飛びついた。だが配下にはこの動きに反対する者もいた。
「我々は百万の兵力を擁し、兵糧の蓄えも十年分あります。袁紹など、空きっ腹を抱えた宿無しではありませんか。びくびくしているのは奴の方です。そんな相手にどうして一州をくれてやる必要がありましょうか?」
 しかし韓馥は
「わしは袁家に取り立ててもらった恩義もあるし、才幹も袁紹の方が上だ。優れた人物に位を譲る。これは古人も賞賛している行為だ。何もお前達の様に目に角立てる事はない」
 とこれを聞き入れなかった。かくして袁紹はまんまとキ州を手に入れたのである。

 キ州を奪った袁紹は勢力拡大に力を注ぎ始めた。キ州奪取時に袁紹配下となった有能武将は数知れず、そんな中の一人である沮授を筆頭に、袁紹は河北統一に向け、一層力を注いでいった。
 この頃董卓は袁紹に対し、服従するように使者を送ったが、袁紹は河内太守・王匡に命じて、使者を殺害させた。董卓はこれに激怒し、洛陽にいた袁家の一族を皆殺しにしてしまう。しかしこれは逆に袁紹の名声を上げる要因となり、諸侯は皆、袁家の為に復讐を誓ったという。
 余談だが、韓馥の惨めなその後を紹介しておこう。袁紹が董卓に恨まれた事を知った韓馥は袁紹の元にいる事が不安になり、よその地に移りたいと袁紹に手紙を送った。こうして韓馥は張バクの元に身を寄せる事になる。ある日、張バクと話をしていたところ、袁紹からの使者がやってきて、張バクに耳打ちをした。韓馥はこれを見て、謀られたと感じ、厠へ行くといって席を立つと、そこで自殺したという。

 一方、袁術は、連合軍で獅子奮迅の大活躍を見せた孫堅を予州刺史として陽城に駐屯させ、董卓軍への前線拠点とした。しかし、董卓が暗殺されると、一気に群雄割拠の時代に突入し、特に『二袁』の対立は明白となっていった。
 袁紹は袁術に対抗して、改めて周グを予州刺史として任命し、軍隊を率いさせ、孫堅の守る陽城を攻めさせた。最終的には孫堅が周グを破るのだが、最初に袁術は周グ軍を迎え撃つ為に、孫堅と公孫サンから援軍として参加していた公孫越を出兵させる。この迎撃戦では孫堅軍と公孫越軍は散々に破れ、公孫越本人は流れ矢にあたり、ここで戦死している。
 これを知った公孫サンは激怒し、袁紹の十の大罪を綴った告発文を上奏して、自ら出兵してきた。この告発文の中には、袁紹の母親が卑しい身分の出であることを指摘し、それなのに爵位を継いで名門の名誉を傷つけているという事まで挙げられていた。公孫サンからしてみれば、踊らされた挙句キ州を奪われ、その上肉親まで殺されてしまったのだから、その怒りは想像に難くない。
 袁紹は正面衝突を嫌い、ここで自分が拝受していた勃海太守の印を公孫サンの従兄弟に当たる公孫範に送り、関係の修復を図ったが、公孫範も勃海郡の兵を率いて、青洲・徐州の黄巾賊を吸収しながら、ついに界橋まで軍を進めてきた。全面対決は避けられない状況になっていたのだ。

 この時、公孫サンは中郎将に任ぜられていたが、自分を頼ってきた一人の男を別部司馬(別働隊参謀)として、従軍させている。劉備玄徳、その人だ。

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実録!河北統一戦線