ところでこの頃の公孫サンはあまり良い話が書かれていない。内政と軍事に絶対的な権力を奮い、役人の子供で優秀な人物がいると、決まってその人間を圧迫し、窮地に陥れた。その訳を訪ねると
「私が役人の子弟や優秀な人材を取り立てて富貴にしてやっても彼らは自分がその地位に就くのが当たり前と考え、私の厚意に感謝しないだろう」
彼の生い立ちにも原因があったのだろうが、軍事力を背景に中華北方で力をつけた自分の慢心であっただろう事も残されている。
徹底した篭城作戦にさすがの袁将軍も戸惑った。戦局は持久戦になってきて、公孫サンの狙い通りに、袁紹軍は武将を差し向け、何度も攻撃を仕掛けたが、どうしても落とす事は出来なかった。この戦いは何年もの間、続く事になる。
そんな中、袁紹は公孫サンに一通の手紙をしたためた。
『私と貴殿はかつて盟約を結び、董卓征伐の誓約を交わした事もあり、信頼によって結ばれた仲。それぞれの担うべき役割もはっきり決まっていた。それゆえ私達が力を合わせ、共に歩めば、古の斉や秦の様に後に続く事が出来ると考えていた。だからこそ私は持っていた印綬を渡し、貴殿の北方の地に、私の南方の地を地を加えるべく、肥大な土地を分割して、貴殿に捧げたのである。これこそ私の誠意を表すものでなくて、なんであろう。まさか貴殿が烈士たる者の徳義を捨て去って滅亡への道を歩み、心変わりして友情を怨念に変え、奪い取った勃海軍の兵馬を予州に差し向けて荒らしまわろうとは夢にも思わなかった。
三軍を統率する将たる者は、怒るときは秋霜のごとく、喜ぶ時は慈雨のごとく、是非好悪の基準が明確でなければならぬ。しかるに貴殿は身の置き方に一貫性がなく、相手の強弱によって態度を変え、追い詰めれば卑屈になり、緩めればのさばってその行動には原則がなく、自分の言葉に責任も持たぬ。貴殿が、年寄りや子供まで虐殺した為、幽州の住民は怒りに満ち、民はおろか身内の人々まで離反して、今や貴殿は孤立無援の状態となった。また辺境民族も貴殿とは同郷。私とは習俗を異にする国の人々であるにも関わらず、それぞれ激怒して起ち、競って我が軍の先鋒として戦っている。さらにはこれらは私の人徳が招きよせたのではなく、貴殿が追い立ててそう仕向けてきたのである。
今、旧都(洛陽)は復興し、罪人(董卓)は滅び、忠臣が補佐して、中華は権威を取り戻した。それなのに何ゆえ貴殿はちっぽけなしがみつき、軍備を維持し、悪名に甘んじて滅亡を急ぎ、後の世に残すべき徳を失おうとなさるのか。どうか恨みや疑いを解いて、旧交を復活させて欲しい。」
公孫サンはこれに対して、返事を出さずにただ防備を強化させた。腹心の関靖にはこんな事を語ったという。
「今や四方で激しい戦が繰り広げられている。我が城下に腰を落ち着かせ、長期戦を戦えるものなどいるはずがない。袁紹などこの私をどうする事も出来ないのだ」
しかし、199年、袁紹はついに自らも出兵し、全軍をあげて、易京を包囲した。長く続いた戦局はついに、最終局面を迎えようとしていた。