袁術はこの後、動乱の最中、自ら帝位に就くことを模索し始め、その同調者を募るようになっていった。この時、ハイ国の相だった陳ケイは袁術とは少年時代からの付き合いで、家柄も袁家と同じく三公を輩出した名門だった。袁術は陳ケイ宛にこんな手紙を送っている。
「かつて秦が大権を手放して後、天下には群雄が起こって、それを奪い合った。そして知勇を兼ね備えた者が、最後に天下を手にしたのだ。今天下の情勢を見ると、物情騒然、二度目の崩壊はもはや時の勢いだ。今こそ英雄の立ち上がるときではないか。お互い古い友達。頼めば嫌とは言えぬ仲だ。私が大事業を始める時は、きっと片腕となっていただきたい。」
陳ケイの次男・陳応はこの時、下ヒにいたが、袁術はこの陳応を無理やり人質に取り、どうしても陳ケイをおびき寄せようとした。だが、陳ケイがこれに応えることは最後までなかった。
195年、献帝が李カク・郭氾の軍勢に敗れると、諸侯を前に袁術はこう言った
「帝室は、あのていらくだ。今や天下は混乱、鼎の様に沸き立っている。我が家は既に四代に渡り、三公を出した家柄。天下の人心は我が袁家に集中しておる。この際わしは天命に応え、人民の期待に沿いたいと思うが、お前達の考えはどうであろうか。」
これに対し、誰も答えようとしなかったが、主簿(文書係)の閻象が進み出た。
「どうか周の例を思い出して下さい。彼らは人民に恩恵を施し、多大な功績を挙げ、ついに天下の三分の二を領有するまでになりながら、なお臣下としてインに仕えたではありませんか。公のご一族は、何代にも渡って栄華を極めたとはいえ、やはり周には及びません。また漢室も衰えたとはいえ、インの末期ほどではありません。」
袁術はむっとしたまま、何も答えなかったという。
しかし、袁術は197年、ついに悪名を轟かせることになる。この時袁術の背中を押したのは、河内の張ケイという人物だった。彼は
「天命が袁術様にくだる瑞兆が現れました」
と言上してきた。袁術は五行相生説を考え、次は自分達の番であると思い始める。五行相生説とは木・火・土・金・水の順番で万物が循環するという考え方であるが、袁の姓は陳から出ており、陳はシュン帝の子孫を封じた国、シュン帝は土徳。したがって袁も土徳。漢は火徳だから、次は土徳が巡ってくるという事だ。またお告げにも『漢に変わるのは、当塗高』と出たため、これを自らこう解釈した。
当塗高…すなわち、塗(みち)にあたりて高しで、魏を指す。術もみちという意味を持ち、字の公路にも通じると袁術は考えた。これをきっかけについに袁術は天子を僭称した。
袁術はその後、日を重ねるごとに、ひどい生活を続け、数百人を超える後宮の女達は、誰もが薄絹の衣装に身を飾り、米も肉も食べ余して捨てるほどだったというのに、その一方で士卒は飢えと寒さに苛まされ、袁術の支配地域は全ての食糧が食い尽くされて、人が人を喰らう現状だったと言う。また、この時、父の代から世話になりながらも、冷遇され続けた袁術に見限りをつけた孫策は、絶縁状を叩きつけ、独立している。