曹操が演じた幾多の戦の中で、他の国との力の差をつける要因となった戦といえば、この官渡の戦いをおいて、他にはない。
圧倒的不利な状況から、袁紹軍を滅ぼし、中原から北方面を一気に抑える要因となったこの戦が残した意味は計り知れないほど大きい。ここでは官渡の戦いを曹操・袁紹そして、そこに関わった多くの武将の動きから追っていこうと思う。
195年、献帝は長安を脱出し、避難していた頃、袁紹陣営では天子の扱いについてもめていた。淳于瓊などは
「漢王室の衰退は今日に始まったものではありません。今から復興させるのは至難の業。天下の各州郡では群雄が割拠し、それぞれ万単位の軍勢を動かしているのが現状です。天子を迎えて、何かにつけて裁可を仰いでいては、思うように身動きは取れません」
とあからさまに反対を訴えた。これに対して、参謀で奮威将軍の沮授は
「今天子を迎えてこそ、立派に筋目が通ると言うもの。早く手を打たねば、必ず人に先んじられます。機を逃がさず速やかに行う事が肝心。そこの所をよくお考え下さい」
と天子擁護を訴えた。しかし袁紹はこれを採用することなかった。ちなみに郭図は正史では献帝擁護派になっているが、献帝伝では反対派とされている。
一方、袁術と小競り合いを繰り返していた曹操は
「この際、天子をお迎えして、許を都に移してはどうだろうか?」
と一同に詰問した。だが、諸将は
「東部一帯はまだ平定されていません。しかも天子を奉じている韓セン・楊奉らは洛陽に到着した後、北方の張楊と組んでおります。簡単に彼らを制圧する事はできませんぞ」
と諌めた。しかし曹操の意見に賛同する者がいた。荀イクと程イクだ。荀イクこう進言した
「昔、漢の高祖は東進して項羽を討つ際、彼に殺された楚の義帝を悼んで喪服を身に着けました。その為に人望は高祖に集まりました。献帝がさすらいの身となられるや、将軍は真っ先に義兵を起こす事を提唱されました。たまたま東部一帯の騒乱が続き、関西に遠征することはで来ませんでしたが、危険を冒して天子と連絡を取ってこられたのです。これこそ、将軍が天下を救おうという初志のあらわれであります。今、天子は洛陽に帰還されましたが、都は荒れ放題であり、正義の士は帝室の再建を願い、人民は平和だった昔を偲んで悲しみにくれています。こうした時こそ、天子を奉じて人民の願望に応える、それが正しい筋道というものです。公正さに徹して天下の英雄・豪傑を帰服させる、それが大きな戦略というものです。大義を掲げて人材を引き寄せる、それが偉大な徳義であります。決断すべき時に決断せず、各地でそれぞれ野心を燃やし始めた後になって、何とか手を打とうとしても、もはや間に合いませんぞ」
この言葉に曹操はついに決断し、従兄弟の曹洪に兵を与え洛陽に進めさせた。しかし衛将軍の董承が袁術と手を組み、これを阻止してきた。同年7月、ついに曹操自身が兵を率い、洛陽に向かう。この頃楊奉は韓センと袂を分かち、すでに洛陽にはいなかった。韓センは曹操を恐れ、洛陽から逃げてしまう。こうして曹操はほぼ無傷で献帝を擁護し都を許に移したのだ。洛陽で混乱を極めていた朝廷もようやく本来の機能を果たすようになっていった。これを見た楊奉は許に兵を起こすが、曹操はこれを迎え撃っている。曹操は改めて大将軍の位を与えられ、名実ともに最高司令官の位に就いた。