黄河を挟んで


許が都となり、河南一帯が曹操の支配下に置かれると、関中の諸侯は我も我もと曹操になびき始めた。袁紹は自分がとらなかった政策を曹操にやられ、絵に描いたようにそれがうまくいったのが、面白くなかった。そこで、曹操に都をエン州のケン城に移すように要求した。献帝への接近を策したのである。しかし曹操はこれをあっさり拒否した。献帝は袁紹に気を使い、大尉の位を授けようとしたが、袁紹は大将軍の曹操より格下になる事を嫌い、これを拒絶した。そこで曹操は自ら大将軍の位を辞退して袁紹に譲ってみせた。改めて献帝は曹操に司空の位を授け、車騎将軍に任命した。この一連の動きは曹操が『官軍』という大義名分を得た事、袁紹が曹操を敵対視する事、曹操が袁紹を警戒する事…つまりは官渡の戦いにおける最初のきっかけになっていったのだ。

その後、袁紹は易京・界橋で公孫賛を打ち破り、その兵と国を傘下に治めた。この時点で袁紹の兵力は数十万。これに総指揮官として審配と逢紀を、参謀として田豊・荀シン・許攸、司令官として顔良・文醜といった蒼々たる顔ぶれを揃えていた。曹操の方も呂布を討ち取り、河南一帯のエン州・予州・徐州を抑え、中原を制していた。黄河を挟んだ北と南で、まさに勢力争いが行われていたのだ。袁紹と曹操。名門の出と宦官の孫。二陣営の周囲はあわただしくなっていった。

最初に動き始めたのは、曹操だった。199年2月、張楊という人物が当初呂布に加担していた為、配下武将の楊醜はこれを殺害し飛ぶ鳥を落とす勢いの曹操に鞍替えしようとした。しかしこの楊醜も配下のスイ固に殺されてしまう。そしてスイ固は軍勢もろとも袁紹陣営に帰還し、射犬に駐屯した。4月、曹操は黄河南岸に進出。曹仁らを渡河させ、スイ固軍を攻撃させた。スイ固自身は配下に守りを任せ、北に馬を走らせ、袁紹に救援を求めに城を出たが、その途中で曹仁の軍と遭遇し、切り殺されてしまう。こうして曹操は黄河を渡り、射犬を包囲し、敵武将を降伏させ自身は魏チュウを残し、引き上げていった。魏チュウとは曹操自身が推挙した人物で、河内郡の政治の全てを任せていた人物だった。エン州がこぞって反乱を起こした時も、
「魏チュウだけは、裏切りはしないだろう」
と言っていたほど。しかし彼が敵側に走ったのを聞いた曹操は
「南の越か北の胡まで逃げない限り、お前を見逃しはしないぞ」
と言ったという。
しかしこの射犬の戦いで生け捕りにした彼を前に
「肝心なのは人間の才能、ただそれだけだ」
と戒めを解いたという。才能を愛する曹操らしいエピソードだ。
この様に曹操側と袁紹側のどちらに味方するのか…諸国の関心はここに集まるようになってきた。しかし兵力・国力・名声全ての面で圧倒的に上回る袁紹が本拠地・許への侵攻をはじめるという噂が流れただけで、曹操側の諸将は震え上がった。とても敵わないと思ったのである。この時、曹操はこんな言葉で彼らを安心させている。
「袁紹がどんな男か、私は良く知っている。野心こそ大きいが、知略がともなわない。顔つきはいかめしいが、肝っ玉が小さい。猜疑心が強いので、部下を心服させる事が出来ない。兵の数は多いなれども、統制がとれていない。将軍共ときたら、威張り腐って勝手な命令ばかり出してくる。確かに領土も広く食糧も豊富だが、何、どうぞ使ってくださいと、こちらに差し出しているようなものだ」

8月、曹操はついに黄河の北、黎陽まで軍を進めて先制攻撃を仕掛けた。戦いの始まりはすぐそこまで来ていた。

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実録!官渡の戦い