官渡の戦いで勝利した曹操。この戦いの戦利品は多くの兵士はもとより、軍需物資・珍品に至るまで目を見張るものだったという。その没収した書類の中に、味方の中で袁紹と内通していた者の手紙まで出てきた。しかし曹操はそれらに目を通さずに全て焼き捨て、こう語った。
「袁紹の大軍の前では、この私でさえ身を保つのが危ういほどだった。まして他の連中ならなおさらの事だ」
201年5月、官渡で不覚の敗北を喫した袁紹はそのまま病に倒れ、死去した。
こうして三国志序盤を彩る大合戦は、『至弱』と呼ばれた曹操軍の圧勝に終わった。ちなみに郭嘉はこの両陣営に仕えた経験があり(袁紹の場合は仕えたと言うよりも訪ねたと言うべきか?)袁紹と曹操の違いを10数えて曹操に語ってみせた。その内容はこちら。何とも的を得た、鋭い観察力だ。
最後に官渡の戦いとその周辺の戦の中で、ここに出てこなかった魏の武将達がどんな活躍をしたのか、記しておこう。
★夏候惇…特別な活躍はなし。河北平定時の北伐では殿を務め、平定後はその地に留まり、戦後処理をしている。驚くべき事に彼には、法律に捉われず、自分の判断で事を処理する権利を認められていたという。
★夏候淵…督軍校尉(督戦隊司令)代行に任命されているが、この戦いでの目立った活躍はない。河北平定後はエン州・徐州・予州の軍の補給を一手に引き受け、当時の苦しい兵糧補給を活発化させた。
★曹仁…劉備が後方からゲリラ活動を起こした時に、これを打ち破った活躍は前述通り。河北平定時も従軍し、壺関を包囲して敵を全員生き埋めにせよという号令を出した曹操を諌め、無血開城させた。
★張遼…目立った活躍はない。袁紹討伐後は夏候淵の副将として、東海郡の平定に従軍。
★楽進…スイコをシャ犬で討ち取る。烏巣で淳于瓊を討ち取る。その後も黎陽・楽安郡・ギョウ・南皮と多くの戦いで先鋒を努め、全て一番乗りの大活躍を見せている。
★于禁…曹操が軍を二軍に分けた時、延津の軍を率いていたのは彼だった。数で上回る袁紹軍の猛攻を耐え、逆に三十余の駐屯地を焼き払い、数千の捕虜を取った。また官渡の篭城戦では最前線で袁紹軍の矢の雨を喰らいながら、味方を叱咤激励している。
★張コウ…河北平定時は別軍を率いて袁譚軍を追い詰める。
★徐晃…河北平定時も従軍し、曹操軍がギョウを包囲した時、隣県の諸国を回り無血開城に貢献した。
★李典…一族を率いて兵糧などの軍に供給、河北平定時は程イクと共に兵糧を船で運んだ。
★許チョ…袁紹軍に寝返った徐他らの暗殺計画を未然に防ぎ、これ以後曹操の身辺警備を努める事になる。
★荀イク…留守の許都を守っていた。前述通り何度も曹操は前線から相談の使者や手紙を送付し、当時の二人の信頼関係が揺るぎないものであることが、予想できる。
★荀攸…もはや説明の必要もないだろう。降伏してきた張コウを疑い、迎え入れようとしなかった曹洪をたしなめたのも彼だった。
★賈ク…降伏後は従軍し、許攸の降伏を受け入れる進言をした。
★程イク…ケン城の留守を僅かな兵士と共に守ったのは前述通り。当時本拠地も持たない劉備に必要以上の警戒をし、何度も討伐するように進言している。
★郭嘉…河北平定戦にも従軍し、烏丸討伐までその鬼謀で大活躍。しかしその後、病の為急死。