明君と暗君


もう一人、袁紹軍には有名な参謀がいた。田豊だ。話は袁紹の出兵前に遡る。
その頃田豊は袁紹にこう進言した。
「曹操は用兵に巧みで、その戦法はまさに変幻自在。小勢だからといって侮ってはなりませぬ。速戦即決を避け、持久戦に持ち込むのです。我が方は焦る事はありませぬ。外は各地の英雄と協力し、内は食糧の増産に力を注ぐ。その上で精鋭を選りすぐって奇襲部隊を編成し、敵の隙を突いて、次々に黄河南方に送り込むのです。右と見せかけて左、左と見せかけて右という撹乱作戦をとれば、敵軍は東奔西走して疲れ果て、農民もおちおち耕作しておられなくなります。敵は自ずと疲弊し、二年も持たずに勝利を収めることができるでしょう。しかるに我が君は兵法の極意を捨て、この一戦に全てを賭けようとなさる。成功すればよろしいが、こと失敗した時には悔やんでも悔やみきれませんぞ」
だが、袁紹は全く耳を傾けないばかりか、口うるさい田豊を捕まえ、枷をはめて投獄してしまったのである。

曹操は官渡の南征の軍に田豊が加わっていない事を知ると
「これで袁紹の敗北は決まったぞ」
と喜んだという。また勝利後に田豊の進言内容を聞いた曹操は
「もし袁紹が田豊の言葉を聞き入れていれば、勝敗の行方は分からなかったな」
と恐れたという。

話は戻り、田豊の予言通り敗走した袁紹は、続々と集まってきた味方の生き残った兵士達と、悔し涙に暮れていた。
袁紹は逢紀にこう呟いた。
「領内の者は、我が軍が敗れたと聞いてもだれもわしの身を案じてくれぬであろう。ただ田豊だけは別だ。出陣前にあれだけわしを諌めたのだからな。わしもあの男にだけは会わせる顔がないわ」
しかし逢紀は自分より今後、田豊がまた重用されるのを恐れ
「あの男、将軍が負けたと聞いて手を叩いて喜んでます。自分の言った通りだと、得意になっているのです」
と諌言した。一方、獄中の田豊の方は袁紹の敗北が決定的になった時、ある人がこう言った。
「あなたはきっと今後重用されるでしょう」
すると田豊は首を横に振ってこう答えた。
「我が軍が勝利を収めたなら、わしも天命を全うできたであろう。だが敗れたからには、きっと殺される」
帰ってきた袁紹はすぐに
「田豊の意見を聞かなかったばかりにこのざまだ。今頃奴は嘲笑しているであろう」
と言って彼を殺してしまう。晋の史家・孫盛は『先賢行状』の中で沮授と田豊についてこう語っている。
「この二人の計謀を観察すると、前漢の張良・陳平に優るとも劣らないものであったのではなかろうか。しからば、君主は臣下の才能を見抜き、臣下は主君の器量の程を知る事が何よりも大事なのである。暗君に仕えた臣下は、必ず哀れな末路を迎えざるを得ない。存立と滅亡、栄誉と恥辱はいつの時代にもこれによって決まるのだ。『詩経』にこんな言葉がある。〜逝きてまさになんじを去り、かの楽土にゆかん〜(無道の国を去って有道の国に仕える、これが大事な事である)」

曹操は官渡に兵力を集中させる為、ケン城に程イクと数百の兵のみを残したが、これを袁紹軍は襲う構えを見せた。曹操は使者を程イクに送り、兵二千を増援させる旨を伝えたが、程イクはこれを断っている。袁紹は程イクの兵が少ないのを見ると、これを無視して通り過ぎた。曹操はこの程イクの決断と度胸を絶賛した。主君と臣下の関係。二陣営の差が理解いただけただろうか?

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実録!官渡の戦い