B劉表の猜疑心
郭嘉は曹操にこう進言した。
「袁紹は息子を可愛がるがあまり、後継者を立てませんでした。袁尚には郭図、袁譚には逢紀が謀臣として仕えている以上、必ずや両者の間に内紛が生じ、放っておいても離れ離れになりましょう。ここで急迫しても両者を団結させるだけ。一旦退いてやれば、やがて暗闘を始めるのです。ここは南の荊州へ向かい、劉表を討つと見せかけて、彼らに異変が起きるのを待つのが上策。異変が生じた後に攻め込めば、一挙にして平定できましょう」
まさに諜報力と郭嘉の神業的な先見の明が生んだ奇策だったのだ。それにしても劉表とは別の相手の為に利用されるほど、曹操に相手にされてなかったのか。
さて話しを元に戻そう。曹操に謁見した韓嵩は、帰ってくると曹操の威光と恩徳について十分に説明し、子供を人質として送るように劉表に進言した。劉表は韓嵩のこの態度に、韓嵩は曹操側に寝返って自分を説得に来たと疑い、彼を殺害しようと画策した。まずは彼の従者を拷問にかけ、証拠を引き出そうとしたが、証拠が出て来る事はなく、従者は拷問に耐えられず、死んでしまった。ようやくこれで劉表も他意がないと考え、韓嵩殺害を取りやめた。陳寿はこの様な劉表の性格をこう評している。
「全てこんな風に、劉表は典雅な学者風とは裏腹に、内心は猜疑心の強い男であった」
この事件が起こった時、劉表の元に亡命を願い出るものがいた。それが劉備である。劉表が彼を手厚く遇したのは、演義に描かれているように、同族である事や劉表自身の暖かい性格などではなく、こういう背景があったからなのである。劉表はさらに曹操と隣接する新野を劉備に与え、軍勢も増強させてやった。
しかし、劉表も予想した以上に、劉備は荊州の民を心服させていく事になる。目ぼしい人材は続々とその配下に加わり、民衆は劉備の仁政に惹かれていった。ちょうど、髀肉之嘆の故事の話しが出てくるのはこの頃の話である。この話しは余りにも有名なので、ここで改めて記す必要もないだろう。名馬・的盧の話しが出るのもこのあたりだ。