C博望破の戦い
いよいよこの後、荊州の州境にある博望で、曹操軍と劉備軍は対峙する事になる。蜀書・先主伝ではこの戦いは南下してくる曹操軍に対して…とあるが、魏書・李典伝では劉備が北進してきたという事になっている。曹操はこの時、郭嘉の予想通りに内紛を起こした袁尚と袁譚を追って、河北を統一しようとしている為、いきなり南下させるというのは考えにくい。ここは魏書の方を正しいと判断して、検証してみようと思う。
次々と有能な人材を集める劉備に、荊州が奴に奪われるのでは…と疑った劉表は、その野望を封じ込める為、彼に博望進出を命じた。曹操はこれに対して、夏候惇に李典をつけて、防衛させた。両軍は一歩も退かずに対峙していたが、ある時劉備が屯営を焼き払って、退却しようとした。夏候惇はこれを見て諸軍を率いて追撃しようとした。しかし李典はこれを引き留める。
「賊が理由なく退くはずはない。きっと伏兵を配しているに違いありません。南への道は狭く、草木に覆われています。追うべきではありません」
夏候惇はこれを聞き入れず、于禁を伴って追撃に移った。この時李典は留守を守っている。しかし、夏候惇らは劉備軍の伏兵の真っ只中に入り、窮地に陥ってしまう。ここで李典が救援に駆けつけ、劉備軍はこれを見た途端に逃げ出していった。実はこの戦いの詳細は、殆んど記載されていない。夏候惇の不甲斐なさと劉備軍の中途半端な作戦が歴史にも残されない戦を作り出したと考えられる。
さて、前述の通りこの頃、劉備軍には有能な人材が続々と集まっていた。その中の一人に徐庶元直がいる。しかし驚くべき事に、彼がどういう経緯で劉備軍に加わったのかという記述はない。唯一蜀書・諸葛亮伝には、―徐庶が劉備と会見し、劉備は彼を有能な人物だと思った―とある。
そんな徐庶は、劉備軍として戦で活躍したという記載はないし、演義の様に曹仁の八門禁鎖陣を破ったというような記述ももちろんない。しかし後の劉備と蜀に関わる大きな仕事をやってのけることになる。