D劉備と諸葛亮
蜀書・諸葛亮伝では、劉備に会った徐庶はこう問う。
「諸葛孔明という男は臥龍です。将軍は彼と会いたいと思われますか?」
「君が連れてきてくれないか?」
と劉備が言うと
「彼はこちらから行けば会えますけれども、無理に連れてくる事はできません。将軍が車をまげて来訪されるのがよろしいでしょう」
劉備はこうして、諸葛亮の下に向かう事になった。そして、三国志を知らない人でも、知っている故事、『三顧の礼』が行われるのである。二人の出会いにはいろんな異説があるが、面白いのは司馬彪の『九州春秋』の記載。それによれば、諸葛亮の方が劉備を訪ね、世の中の情勢を質問した上で、自分の置かれた劣勢の立場を正直に答えた劉備を軍勢を増強させる策を論じ、劉備を感服させたとなっている。しかし今でも三顧の礼が最も有力な説だと考えられているのは、諸葛亮が北伐の際に、劉禅に向けて記した『出師の表』にその事実が謳われている事から。
劉備と諸葛亮の交情は日ごとに密になり、関羽や張飛はこれに対して、不満を漏らしていたが、劉備は、
「私と孔明の関係は、あたかも魚と水のような関係だ。理解してくれ」
と語ったという。これも後に『水魚の交わり』と呼ばれる故事になったのは言うまでもないだろう。
さて、情勢の方に話しを戻そう。時に曹操は、河北を制圧し、さらに北方の烏丸を征伐する為に許都を離れていた。劉備は改めて劉表に許都を襲撃するべし、と進言した。だがこの時も劉表はためらい、献策を受け入れなかった。後に曹操が帰還したと聞いた時、劉表は
「君の進言を受け入れなかったから、千載一遇の好機をみすみす見逃してしまったな」
と語った。劉備はこれに対して、
「そんな事はありません。今、天下は分裂し日々戦いに明け暮れておりますから、これが最後の好機というわけではありません。今後もこの様な好機に恵まれましょう。今回の事はさほど残念がることではありますまい」
と言ったとある。