H長坂の戦い


 曹操は劉備が目指した江陵に大量の軍事物資が蓄えられている事を知っていた。劉備が江陵に入る前に叩いておきたい…そう考え、戦闘部隊だけを連れて襄陽に急行した。ところが襄陽に着いてみると、既に劉備軍の姿はなく、南下した後だった。曹操は五千騎の精鋭を選りすぐって、急迫に移った。疾走する事一昼夜、三百里余を走り続け、ついに当陽の長坂で追いついたのだ。対する劉備軍は、僅かな兵と無数の民衆を抱えていた。当然、戦になるはずもなく、民衆は大混乱に陥り、曹操軍は数え切れないほどの捕虜と膨大な物資を手に入れる事になる。

 劉備は家族を連れたままでは逃げ切れないと見て、ここで妻子を見捨てて、自分は張飛に二十騎を与え、殿を務めさせた。この時、張飛は川を渡ってそれを盾にし、橋を切り落として、目を怒らせ、矛を小脇に抱えて、大声で敵に向かって吼えた。
「我こそは張益徳だ!命の惜しくない奴はかかって来い。死ぬまで戦おうぞ!」
 橋まで迫った曹操軍だったが、誰一人張飛に近づけず、このお陰で劉備はさらに南へ逃げる事が出来たのだ。
 また趙雲はこの時、劉備が棄てた妻子を助ける為に、単身敵中に突撃し、赤子(すなわち、後の劉禅)とその生母甘夫人を救い出すという大活躍を見せた。

 さて、最初に話したように、正史における長坂の戦いの記述は驚く程少ない。張飛の大見得は張飛伝に何行か、趙雲の単騎駆けに至っては趙雲伝に僅か一行程しか記載されてない。さらに魏書には長坂で劉備軍に追いついたという記載はあるものの、その内容については、一切触れられていない。それでも尚、この戦いが現代の人々の胸を打つのは、羅漢中の三国志演義によるものが大きい。あの作品がどれだけ想像を膨らませ、より面白く作られているのか、この長坂の戦いを考えただけでも一目瞭然と言えるだろう。ちなみに長坂の古戦場と考えられる現在の中国湖北省当陽市長阪坡には趙雲の銅像が建てられている。


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