呉郡の郡司馬(軍務副官)だった孫堅は、義勇兵を募り会稽一帯で起きた反乱を収めた。この功績で、徐州や下ヒの各県の丞(副知事)を歴任する事になる。172年の事だが、長男・孫策が生まれたのはその三年後、175年だった。孫策は短命だった為、孫策伝は僅か6〜7年の出来事をまとめてあるだけだが、孫策に関わった人物の伝を紐解くと、その内容は実に濃い。それだけ見ても、彼の人生が波乱万丈に富み、いかに生き急いだかが分かる。ここでは孫策の短い人生を追い、『江東の小覇王』と呼ばれるに至ったその経緯と謎を追ってみようと思う。
中華全土に広がった黄布の乱を鎮めるべく、孫堅も義兵を挙げた。朱儁に従軍した訳だが、この時に寿春に家族を移した事が裴松之の注で書かれてある。この時、184年だったので、孫策は10歳そこそこだが、この当時から早くも名士達と親交を結び、評判を高めていた。ちなみに孫権は182年だから、この時はまだ子供に過ぎない。
孫策の評判を耳にした多くの名士達が彼を訪ねてきたわけだが、この中で孫策は運命的な出会いをする。当時洛陽の県令(知事)を勤めていた周異の息子・周瑜である。彼もまた孫策の評判を聞きつけ、わざわざ地元の廬江から訪ねてきた。二人は同い年だったこともあり、たちまち意気投合し、『江表伝』で表現される『断金の交わり』を結んだ。ここまで見ても分かる様に、この当時の家柄は周家の方が随分上だった。それを超えて二人を繋げたものは、周瑜と孫策の人柄に他ならない。この後、周瑜は孫策を家族ごと自分の地元に呼び寄せ、立派な屋敷を提供し、孫策の母にも礼を尽くして、生活に不自由がないように気を配った。
兄弟の様に生活をしていた彼らに不幸が訪れたのは、192年の事。袁術の命により、荊州へ侵攻した際、黄祖配下に矢を射掛けられ、『江東の虎』と恐れられた孫堅が死んでしまったのだ。これをきっかけに孫策は周瑜の元を離れ、曲阿に帰って父を埋葬した。この時孫策はまだ17歳。ここで孫策はなぜか呉を離れ徐州の江都に居を定めた。自分が継ぐべき爵位を末っ子の孫匡に譲ってまでである。この理由ははっきり分からないが、孫策の野望が見え隠れしていると思われる。
しかしこの頃の徐州牧・陶謙は孫策を異常に警戒し、忌み嫌う。この理由もはっきり分からないが、孫策が袁術の息のかかった一武将であることに変わりなく、徐州を虎視眈々と狙う袁術を警戒しての陶謙の行動ではないかと予想できる。家族の危険を察知した孫策は母を曲阿に戻すと、自分は母方の叔父である、楊州・丹陽郡の太守・呉景の元に身を寄せる。こうして呉に帰るのは、ある人物の後押しがあった。この頃徐州の『二張』の一人として呼び声の高かった張鉱である。孫策は何度も張鉱を訪ね、涙ながらに思いつめた自分の気持ちを訴え、教えを仰いだ。張鉱はその気持ちに胸を打たれ、同志と共に江南に移り住むよう進言する。
こうして孫策の野望への第一歩が踏み出されようとしていた。