亡き孫堅の軍や兵は、孫堅の兄の子・孫ホンによって率いられ、そのまま袁術配下になっていた。袁術は孫策を呼び寄せると、孫策もこれに応え、寿春に直行すると涙ながらにこう訴えた。
「かつて亡き父は、長沙から董卓討伐に出陣し、南陽であなたとお会いして同盟を結びました。不幸にして不慮の死を遂げ、功業は達成できませんでした。亡き父のこうむったご恩は何よりも重く、私もご加護を仰ぎたく思います。何卒、私の願いを、お聞きくだされ。」
袁術は上機嫌で申し出を受け入れたが、兵を返すつもりはなく、戻って兵を募るように指示しただけだった。
この後孫策は素直に戻り、呉景の下で兵を募ったが、僅か百人余りの兵が集まっただけ、将の方もたった二人だけだった。呂範と孫河である。呂範は陶謙に袁術の間者と疑われ、拷問を受けていた。このあたり、孫策と同じ境遇であった事が二人を近づけた理由か?孫河は一族が孫ホンと共に袁術の幕下に入る中、唯一孫策に従った人物である。ようやく集まった百人前後の兵だが、地元の山賊・祖郎の軍団に襲われ、殆んど壊滅状態にされてしまう。そこで孫策は再度袁術の下に赴き、正式に父孫堅の後を継ぐ意思を表明する。袁術はこの時、曹操に攻められ、楊州方面に押され始めた頃だった。期待した孫ホンも大した活躍が出来ず、孫策の方が利用価値があると踏んだのか、ここではあっさりと軍を返す約束をした。それでも僅か数千人だけだった。しかし孫策にとっては兵の数以上に程普・黄蓋・韓当ら孫堅旗下の武将達が返って来た事が大きかったと思われる。ようやくここから孫策軍がスタートしたと言っても、過言ではない。またこの辺りから、孫策の魅力は周りの人間を心服させていく。袁術軍の大将、喬ズイ・張勲といった武将も心服していた事が書かれている。袁術自身も然り。こんなエピソードが残されている。
ある時、孫策の騎兵が罪を犯し、袁術の軍営に逃げ込んで馬屋に隠れた事がある。孫策は部下に命じてこの男を斬らせると、袁術を訪ねて謝罪した。袁術は
「兵士の犯罪が頻発している。これを憎むのは私とて同じこと。わざわざ謝りに来るまでもなかろう。」
この事があってから部下達はますます畏敬の念を深めたという。袁術は口癖の様に
「私に孫策のような息子がいれば、いつ死んでも心残りはないのだが。」
と嘆いていたともある。
しかし袁術はこの後、お得意の背信劇を展開していく。当初は孫策に九江太守を約束していたが、それを撤回し、あっさりと陳紀を起用したのだ。しかし徐州攻略を企てた袁術は、兵糧供出を拒否した廬江太守・陸康に激怒し、孫策に陸康討伐を命じる。実は孫策も以前、陸康に面会を求めた際、門前払いを喰らった経験があった為、嫌っていた。袁術はこれを利用し、討伐後は廬江太守を、と約束した上で出兵させた。孫策にとっては事実上の初陣だったが、瞬く間にこれを陥落させたという。しかし、袁術はまたもや約束を反故にし、自分の部下である劉勲を廬江太守に任命したのである。孫策はますます失望していく事になった。
その頃江東で、くすぶり始めていた戦火が孫策の運命を大きく変えていくことになる。