孫策が袁術討伐の軍を挙げようとしたその準備中に、袁術は死んでしまう。袁術の従兄弟の袁インは寿春を諦め、袁術の棺を担ぎ、妻子や一族と共に、カン城の劉勲の元に身を寄せた。また劉勲は孫策軍に降ろうとした楊弘・張勲らを襲い、全員を捕虜にし、財宝を奪った。これを知った孫策は偽って、劉勲に同盟を持ちかけ、その上で袁術の兵を得たばかりの劉勲に対して、こうそそのかした。
「近頃、予章郡のある一族一万余が、江東に移り住んでるから、この一族も配下に収められよ」
劉勲はこれに喜び、出発する。この間に孫策は昼夜兼行で軽装の部隊を引き連れ、廬江を襲撃し、劉勲の部下全員を降伏させた。まさに電光石火の速さだ。劉勲は僅か百人ばかりと共に曹操の元に逃げ込んだ。
ちなみにこの一連の劉勲との戦いは孫権の初陣であり、当時18歳の孫権はさらに兵を荊州に回し、父を殺した黄祖の軍を退けている。当時、袁紹と雌雄を決すべく、策略を練っている真っ最中だった曹操は南の孫策まで敵に回すわけにはいかず、さらなる懐柔策として、自分の弟の娘を孫策の弟の匡に嫁がせ、さらにわが子の曹章の嫁に孫ホンの娘をもらった。同時に弟の孫権と孫ヨクとを手厚い歓迎で招き、孫権を茂才(官僚候補)に推挙までした。またこの後、孫策が江南まで平定したと聞いた曹操は、さすがに心中穏やかではなく、大声で
「狂犬相手では、喧嘩にもならん」
と言っていたという。
さて、丹陽平定の後の周瑜はどうしていたのだろう?袁術は丹陽太守であった周瑜の叔父・周尚を更迭し、従兄弟の袁インを太守として送り込んだ。そこで周瑜は周尚と共に寿春に一旦引き上げている。袁術は孫策同様、周瑜の才能に惚れ、将軍に取り立てようとしたが、周瑜はそれをいち早く見抜き、呉にいる孫策の元に逃げようと目論んだ。そこで、呉の居巣の県長になりたいと上奏し、これを認められ、晴れて孫策の元に入ったのだ。198年の事である。孫策は自ら、周瑜を出迎え、建威中郎将に任じ、兵二千・騎馬五十頭を与えた。この時、孫策と周瑜は若干24歳。孫策の『孫郎』に対して、呉の人々は皆親しみを込めて、彼を『周郎』と呼んだ。孫策は周瑜の名声と人望を大いに活用し、各地を歴任させ、また周瑜もその期待にことごとく応えていく。やがて、孫策は荊州も手中に収めようと、周瑜を中護軍(直属親衛隊司令)に任じ、合わせて江夏軍太守の地位に据えた。
孫策と周瑜は劉勲を討った勢いそのままに荊州近辺を制圧したのだが、この時橋公の二人の娘を手に入れた事が、周瑜伝に書かれている。実は孫策伝には彼女達の名前はどこにも見当たらないし、彼女達の親であるはずの橋公が一体誰なのかは謎のままだ。二人の娘は、いずれも類まれな美貌の持ち主で、孫策は姉を、周瑜は妹をそれぞれ妻とした。『江表伝』には、
「橋公の二人の娘は故郷を失うことになったわけだが、我々を婿殿にすることができたのだから、満足だろう」
と孫策が語ったとある。
200年、孫策の台頭は目を見張るものがあった。時に曹操と袁紹が官渡において、雌雄を決しようとしていた。孫策に吹いていた風が急に風向きを変えようとしていたのも、この頃だった。