200年、曹操と袁紹は官渡において対峙していた。この隙に孫策は許都を襲って漢帝を迎えようと、密かに出撃態勢を整え、諸将を各部署に配置した。しかしここで思わぬ事件が起きる。何と以前攻略し、孫策自らその首を討った許貢の食客の手によって、孫策が襲われたのである。許貢の遺児達は父の食客と共に、長江のほとりに身を隠していた。孫策が一人で馬を駆って外出した時に、この食客にばったり出くわしたというのだ。孫策の傷は深かった。彼はすぐに自分の死期を悟り、張昭らの側近を呼んで、
「今、中原は動乱の中にある。呉越の将兵と三江の要害を頼みとすれば、我々にも好機が巡って来よう。どうか弟を守り立ててやってくれ」
と言い残し、孫権を呼んで印綬を授け、こう言った。
「江東の軍勢を率いて、敵味方両陣営の対峙の中で有利な時期を掴み、天下の諸雄と勝負を争うとなれば、私はお前より優る。だが、優れた者を見出し、各人の能力を発揮させて江東を確保するという面では、お前の方が適任だ」
こうして、孫策は志半ばで、死去した。享年26歳。孫権に至っては、まだ18歳だった。『呉歴』によれば、孫策が負った傷は、医者の見立てでは、百日間安静にしておけば治ると言われていたという。ところが、鏡に映った自分の姿を見た孫策は側近に向かって激昂し、
「こんな顔では、もはや功業を立てることなどできまい!」
と言い、机を叩き割った。とたんに傷口が開き、その夜のうちに死んだとある。
少し話しはずれるが、孫策を殺した許貢の食客を裴松之は絶賛している。彼は名もない低い身分の者でありながら、義のために命の危険を顧みず、思い切った行動に出たのは、古代の烈士に匹敵する…とある。
孫策に関して、後の世の人はどんな評価をしているのだろうか?陳寿は、
「孫策は、英雄の気概と行動力を備え、勇猛で決然としたさまは当代随一であり、奇策によって勝利を収め、中原を圧倒する勢いであった。しかし二人とも(孫堅と孫策)慎重さに欠け、性急であったため、身を滅ぼす結末を招いた。ともあれ、江東に割拠する基礎を築いたのは孫策であった」
としている。しかし、謎かけの様に、この後、
「しかし、その功績に対して、孫権が十分に報いたとは言いがたく、孫策の子(孫紹)が候に封じられただけとは、あまりにも情理に欠いている」
と、孫権の方を非難している。これに対し、裴松之は反論する。
「孫策は古臭い名分に拘らず、子ではなく、弟に位を譲った。彼の嫡男は意気地がなく、とても父の大業を受け継ぐ器ではなかった。」と孫策を褒めて、さらに孫権の人事に賛同している。
これは個人的な意見だが、孫権は帝位に就くと、父を武列皇帝としたが、兄は長沙桓王としている。つまり孫策を何故か帝位には就かせていない。これに何の意味があるのかは、今となっては分かる術はない。
最初に挙げたが、孫策伝の内容は僅か6〜7年の出来事が書かれているだけである。ここまで見ても、何と内容の濃い人生であったが分かってもらえるだろう。戦乱の世を早すぎる速度で疾走した、『江東の小覇王』の一生は、まさに波乱万丈の人生だった。