孫策の死に関しては、異説が多く、本当のところははっきり分からない。特に于吉の死に関しての記述は、『江表伝』と『捜神記』でも記載が異なる為、裴松之でさえも事実は分からないとしている。
『江表記』
ある日、孫策が呉城の楼門上で諸将や賓客を集めて宴会を催していたところ、盛装した于吉が城門の下を通りかかった。それを見た、諸将や賓客の三分の二は楼を降りて、うやうやしく迎え、係りの役人が大声で禁じても聞き入れなかった。孫策はその場で于吉を取り押さえ、逮捕した。信者達は、こぞって孫策の母の元に助命嘆願に行き、母も孫策に
「于先生は、軍にも幸運をもたらし、将兵の命を守っているのですぞ。殺してはなりません」
と、とりなしたが
「あやつは怪しげな術を使って、民衆を惑わせております。諸将までが君臣の礼をかえりみず、私を放って楼を降り、礼拝する始末。生かしておくわけにはいきませぬ」と言って、応じなかった。また、諸将も連名で自分達の行為を弁明し、于吉の助命嘆願書を提出したが、孫策は即刻死刑を命じ、于吉の首を市場に晒した。それでも信者は于吉の死を信じず、死体を残して仙界に帰ったのだと、いつまでも祭祀し続けたという。
『捜神記』
孫策が許都を襲おうとした時、于吉を同行させた。たまたまひどい日照りが続き、焼け付くような暑さだった。水が干上がって船も進まなかった為、孫策は雨を待って、軍を待機させていた。ある日、孫策が兵を激励しようと、朝起きてみると、兵たちが于吉の周りに群がっていた。孫策はカッとなって
「私を何と心得る。そんなに于吉が偉いのか!」
と叫び、その場で于吉を捕らえ、縛り上げた上でこう注文した。
「日照りで軍が動かぬのに、お前は知らん顔でのんびり座り込み、怪しげな術を施して部下たちを惑わしている。さぁ、雨乞いをしてみよ。正午までに雨を降らせたら、助けてやるが降らなければ死刑だ。」
しかし、みるみるうちに雲気が立ちのぼり、正午の前に雨は降り始めたという。将兵はこれで于吉は許されると思い、口々に于吉に祝いを述べていた。しかし孫策は結局、于吉を殺してしまう。将兵は悲しんで、于吉の死体を安置したが、その夜またしても雨雲が覆い、朝になると于吉の死体は消えていた。
『捜神記』ではこの後、孫策が于吉の幻に悩まされ、しばらくノイローゼ状態になっていたとある。そして、刺客によって負った顔の傷の具合を見るために、鏡を覗いたら、自分ではなく于吉が映ったとある。孫策は大声をあげて鏡を殴りつけたが、直後傷口が広がり、息絶えたと記されている。
于吉に人間の能力を超えた力があったかどうかは、分からないが、このいくつかの資料を見た感じでは、起きた順番としては…@于吉の惨殺→A孫策刺客に襲われる→B孫策死すと見て間違いはないだろうと思われる。あくまでも私個人の意見だが、于吉の呪い説というのは、于吉を仙人と仰いだ熱狂的信者達が、彼を惨殺した孫策の死に無理やり于吉を結び付けたのではないだろうか。そう考えれば、全てのつじつまが合う。何はともあれ、孫策の人間性や、若さから出た錆びが招いた、短い人生の汚点が、演技でも後世に残ってしまったのだから、仕方ないだろう。