冷遇された猛将


孫策死す!
守りを固めていたサク融軍にそんな情報が飛び込んできた。孫策軍からの逃亡者の情報であった。父と同じく陣頭に立って軍を引っ張る孫策にはその危険は十分に考えられた。サク融は部下の于茲に命じて、早速孫策軍への追討を命じた。大将を失った孫策軍は、戦うことなく見るも無惨に敗走していく。これを見た于茲はさらに追走していく。しかし戦局は突然一変する。背後から孫策軍の伏兵が襲ってきたのである。思いもよらぬ孫策軍の攻撃に于茲軍は総崩れとなり、孫策軍は徹底的に追撃部隊を叩く。その陣頭にはいつもの如く、死んだはずの孫策が立っていた。死亡情報は偽の情報だったのだ。孫策は于茲軍を散々に叩ききった後、サク融の陣営まで軍を進め、『これが孫策軍だ!』と大声で叫ばせた。さすがの宗教軍団もこれには恐怖し、この夜のうちに多くの兵が逃亡したという。以後、サク融は堅固な軍営の堀をさらに深くし、塁を高くして防御を固め、一層なにがあっても出撃しなくなった。

よほど堅固で動かなかったであろう事は、この後孫策軍がサク融軍を無視して移動し始めた事を見ても分かる。また、サク融軍の方も、同じ過ちを犯さない為か、それともただ情報に関して疑心暗鬼に陥っていただけなのか、孫策軍が目の前から消えても、動いていない。さて、孫策軍はそのまま曲阿への道を直進していったのか?実はそうではなかった。孫策軍は一旦長江を北に渡り、そのまま東へ進むと、電光石火の早業で曲阿の北東にある海陵という地を襲った。ここには何と劉ヨウ軍が孫策軍を背後から突くべく、別働隊が待機していたのだ。ここでも孫策軍はその諜報力を発揮し、敵の情報を逆に利用し、別働隊を先に叩くという離れ業を演じた。さらに孫策軍は海陵の別働隊を叩くと、秣陵城に戻り、改めて曲阿に向けて進軍している。あとは劉ヨウのいる本拠地・曲阿だけである。

さて話しを劉ヨウ側に移してみよう。この時点で、既に孫策軍の兵数は劉ヨウ軍をはるかに凌駕していたと思えわれる。しかし劉ヨウの下にはまだ有望な人材が多数いた。許邵や太史慈がその代表である。しかし劉ヨウは太史慈に軍権を与えなかった。これは太史慈に軍権を与えるだけの権利がある人間と思っていなかったと思われる。武勇に名高い太史慈が幕下にやってきた時、彼を大将軍に推す声もあったが、劉ヨウは
「子義を重用したら、許邵に笑われまいか?」
と心配し、却下した事が残されている。特にエリートだった劉ヨウだからこその考えだったのではないだろうか。また孫策が一兵卒でも能力があれば将にしたことと比べれば、二人の差が歴然と見えてくる気がする。許邵に関しては、彼に軍才や戦略的知識があったかどうかが不明。しかし彼の名声は陣営として見た場合、かなり効果的で、許邵自身も数ある陣営の中から、名声のある劉ヨウを選んだあたり、プライドの高さやエリート意識を感じざるを得ない。さらに劉ヨウの致命的なミスは、圧倒的な兵力差を持ちながら、戦力を分散させ、機動力のある孫策軍にそれを一つずつ潰されたことだろう。

太史慈はこの頃、偵察の任務を与えられていた。運命のその日も太史慈は、そこまで迫った孫策軍の軍の状態を探る為、偵察に出ていた。事件はこの時に起こった!

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実録!江東の小覇王