二人の英雄


演義やゲームでは『一騎打ち』は三国志を彩る一大イベントとして、鮮やかに描かれる。しかし実際に正史で残されている一騎打ちは殆んどない。恐らく混戦が多かった為か、一騎打ちしても実際には一太刀二太刀で勝負がついた為、そこに描かれる程でもなかったのでは?と予想できる。しかし、大物同士の一騎打ちが一つだけ正史に残されている。それがこの孫策Vs太史慈だ。

偵察中だった太史慈はただ一騎の騎兵を伴っていた。孫策は十三の騎兵がいた事が記されているが、それでも少ない。恐らく孫策側も、作戦検討の偵察中だったのでは、と思われる。しかし、孫策側の十三騎の中には韓当・宋謙・黄蓋がいた。そんな彼らがばったり出会ってしまうのだから、これを運命と言わずして何と言おう。太史慈は直ちに進み出て、孫策に戦いを挑んだ。何と、一軍の将である孫策はこれに応え、戦いを挑んだのである。孫策は太史慈の馬を刺し、転がした上でが背負っていた手戟(一部には暗器の一つだと言われている)を奪い取った。対して、太史慈も孫策の兜を奪い取って見せた。ここで双方の軍勢が異変に気づき、駆けつけ、両者は互いに手を引いたとある。

さて、こういった予想外の出来事はあったものの、孫策軍は順調に曲阿まで進軍し、包囲を開始した。劉ヨウはついに諦めて、丹徒へ逃亡し、再起を図る。そこで、劉ヨウは南に逃亡しようとしたが、許子将は曹操・劉表と連携が計りやすい、予州への逃亡を進言し、これを聞き入れる。しかし、この逃亡中にサク融が反旗を翻す。また太史慈もこの逃亡中に行方をくらまし、山に入って、丹陽の太守を自称した。ちなみに劉ヨウはこの後、二度の討伐で何とかサク融を討ち取るが、サク融の後を追うように、反乱鎮圧後に死去した。42才であった。

ほぼ無血の状態で曲阿を手にした孫策は配下に恩賞を与えると、まずは家族をそこの呼び寄せた。劉ヨウは軍を置き去りにして逃げたため、諸郡の太守も皆、我先にと逃げていったので、苦労せずに回りの諸郡も落とすと、
「劉ヨウ・サク融の配下であっても、投降してくれれば一切罪は問わない。従軍を希望するものがおれば、一人が軍役につくだけで一家の罪は免除する。ただし、従軍しなくても、強制はしない」
と布告を発した。その後十日ほどの間に二万余の兵士と千頭余の馬を手にしたという。また、孫策は冗談を良く飛ばし、こだわりなく人の意見に耳を傾け、どしどし人材を登用した。そんな人柄だったから、一度彼に会った者は、誰もがやる気を起こし、喜んで命を投げ出したという。
当時若かった孫策を人々は親しみを込めて『孫郎』と呼んでいたことが「江表伝」に書かれている。しかし、楊州の住民達は孫郎が来たと聞くと、肝をつぶし、役人達は山野に逃げ込んだともある。主だった官吏を全て新たに任命した孫策は自ら会稽郡の太守となり、自分の配下の人間にそれぞれ役職を与えていった。周瑜だけは配下というより、同志という間だったのか、孫策は
「これだけの兵力があれば、呉・会稽の両軍を攻略できるどころか、山越族を平定する事もできよう。君は先に戻って丹陽を固めて欲しい。」
とお願いし、袁術に備えさせた。こうして、孫策の江東制覇は時間の問題となっていった、が、孫策にはどうしても気になる男がいた。あの太史慈だ。

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実録!江東の小覇王