独立への侵攻


戦わずして敗走した劉ヨウを見限った太史慈は、丹陽の太守を自称し、ついに独立した。孫策は南に向いていたので、太史慈は西の山越の部族多数を傘下に治め、対抗しようとした。しかし太史慈が考えた以上に孫策の動きは早く、しかも太史慈討伐に孫策自ら乗り出してきたのだ。しかも呂範ら歴戦の武将が参加している為、かなりの規模の行軍であったと思われるが、残念ながらこの戦の詳細は全く残されていない。分かっているのは、孫策軍が勝ち、太史慈が捕われたという事。
孫策の前に連れて来られた太史慈に対し、孫策は縄目を解き、手を取って言った。
「戦った事を覚えておられるか。もしあの時私を生け捕りにしていたら、あなたはどうされたか?」
「それは何とも分かりかねます。」
すると孫策は大笑いして言った。
「今後は共に天下の大事に当たろうではないか。」
孫策はその場で督(指揮官)に任じ、帰還すると兵まで与え折衝中郎将(准将軍)に取り立てた。やがて、劉ヨウの敗残兵を集める為に、孫策はこれを太史慈に命じた。左右の者は口を揃えて、
「それでは奴を北に逃がしてやるようなもの」
と忠告したが、孫策は
「太史慈が私を捨てて、誰に付くというのか」
と一蹴した。この後、彼を遠くまで見送り、別れ際に手を取り話した。
「いつ戻って来られるか」
「60日とはかかりますまい」
太史慈は確かにその言葉通りに帰還したという。

丹陽軍を平定した孫策はそこからさらに西の呉郡・南の会稽郡の平定に着手する。その頃呉郡の太守だったのは許貢である。許貢に関しては、呉書と蜀書で書かれている内容が違うので、曖昧な書き方しかできないが、後々の孫策に大きく関わって来るので、一応紹介しておこう。
蜀書・許靖伝には許貢は呉郡都尉だったとある。一方、孫策伝には強引に前任者を追い出して、居座った事が書かれている。どちらにしても、荒くれ者達を擁した、侠人であったのでは、と予想できる。
この呉郡平定には、朱治が軍を率いている。朱治は袁術配下にいる頃から、袁術が独自に立てた呉郡都尉だった。これは予想だが、孫策伝に呉郡平定の様子が描かれていない。恐らく、孫策はこっちには行かずに、呉郡・会稽郡と同時侵攻したのではないかと思うのが、自然ではないだろうか?土地勘のある朱治は呉郡の由拳という地で許貢軍と対峙。そこでいきなり大勝利という成果を挙げる。結局、許貢は南方に逃亡して、反乱勢力の厳白虎の元に身を寄せる。簡単に朱治が呉郡を平定したのに対して、会稽郡に向かった孫策は苦戦している。この頃の会稽郡太守は王朗だった。王朗は会稽郡の天然の要塞をうまく利用し、破竹の勢いだった孫策の動きを食い止めていた。王朗の下には虞翻がいた。虞翻は孫策との戦いに勝機はないと見ていたが、王朗は聞き入れなかった。足踏みしていた孫策に今回、妙計を献策したのは、父・孫堅の弟であり。孫策の叔父にあたる、孫静だった。王朗軍の背後をつくべし…この策に孫策は乗った。まさに孫策軍の人材の層の厚さを思わせる逸話だ。

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実録!江東の小覇王