呂布Vs曹操を検証するにあたり、遡るのはどこが良いか悩むところだ。本来なら呂布の生い立ちから語りたい所だが、ここではまず簡単に董卓暗殺後の呂布の行動から追ってみようと思う。
王允と共に董卓暗殺の首謀者として、董卓の同郷の涼州人から恨まれた呂布は賈クの進言で、長安を攻撃してきた李カク・郭氾の軍勢によって南陽の袁術の元に逃げ落ちる。董卓暗殺から僅か60日後の事だった。
呂布は袁術が董卓を暗殺した自分を恩にきらないはずはないと踏んでいたが、袁術は受け入れを拒否した。『主人殺し』を嫌がっての返答だった。やむなく馬首を北に向け、キ州の袁紹を頼る事にする。
袁紹は呂布を迎え入れ、早速黒山賊の退治を命じるが、黒山賊には張燕率いる一万以上の兵がいて、袁紹はさすがの呂布も勝つわけがないと踏んでいた。しかし呂布は赤兎馬にまたがり、敵陣深く切り込んで縦横無尽の活躍で一蹴して見せた。これに恐れを抱いた袁紹は精鋭30人を密かに刺客として送り込み、呂布を暗殺しようとした。が、呂布はこの計画に気づき、南下して同郷の河内の張楊の下に走った。この時呂布は、途中で陳留太守だった張バクの所に寄っている。二人は意気投合し、別れる時は手を取り合って協力を誓い合ったらしい。実はこの出会いこそが、呂布ばかりでなく、曹操・袁紹・張バクら反董卓連合軍に加盟していた諸将の微妙なバランスを壊すことになった原因だと言える。
張バクは連合の中で唯一敢然と大軍勢に立ち向かう姿勢を見せた曹操を評価し、協力してきた数少ない有力者だった。連合の中で盟主になった事を鼻にかけ、尊大に振舞っていた袁紹に道義に基づいて意見を述べたが、それに腹を立てた袁紹は曹操に張バクを暗殺するよう持ちかけた。しかし曹操は
「張バクは私の親友です。君のほうこそ是非を見分けてはいかがですか?」
と忠告している。張バクはこの事で一層曹操へ敬服するようになった。また曹操が徐州に陶謙討伐に出た時などは家族に
「私に何かあったら、張バクを頼りにしなさい」
と言い残す程、二人の仲は親密だった。しかし呂布を歓迎した張バクはまた袁紹に恨まれると恐れを抱いた。そして、曹操も今度ばかりは自分を助けてくれないかもしれないと思い始めていた。
そんな194年、曹操が再び陶謙討伐の兵を挙げた時に事件は起こった。