天才・エン州奪回


 この年は過去に例のないイナゴの大群に干ばつによる凶作が重なり、人が人を食う有様だった。徐州の牧で曹操が遠征途中で帰還せざるを得なくなったあの陶謙が病死したのもこの年だった。この一報を聞き、曹操はまず徐州を攻めて、それから呂布を攻撃しようと考えた。だが荀イクはこれに反対した。
「呂布軍の武将、李封とセツ蘭が倒れた今、さらに東に別働隊を派遣し陳宮を釘付けにするのです。その隙に兵士を動員して麦を収穫させましょう。節約に心がけさえすれば、その後呂布を一撃の元に破る事ができましょう。今、呂布をこのままにしておいて、徐州攻略に向かっても兵を二分する事になり、思うような作戦が取れません。全ての物事は捨てるべき物と取るべき物の選択が大事です。小を捨てて大を取る。危険を避けて安全を取る。足元に気を取られすぎず、時に応じてバランスを取る。この三点に照らせば、今出撃するのは決して得策ではありません」
 曹操はこの言葉で徐州侵攻を思い止まり、麦の収穫に力を注ぎ呂布との戦いに勢力を向けたのだ。

 195年、満を持して曹操は再び呂布討伐の兵を挙げた。済陰郡太守・呉資は南城に立て篭もって抵抗した為なかなか落とせずにいた所を呂布が背後から奇襲をかけてきた。その時曹操の兵は麦の刈り取りに出払い、城内に残っていたのは千人に満たない兵士達だった。そこで曹操は婦女子を城壁に配置させ、守備兵に見立てた上に残りの僅かな戦力に全力で戦闘に備えるよう指示している。近づいてきた呂布は守備兵が少ないのを見ると、西の林を見て、そこに伏兵がいると思い込み、十里余りも軍を退いたのだ。伏兵のいなかった事を聞いた呂布は翌日改めて攻撃を仕掛けてきた。しかし今度は本当にその林の中に伏兵がいて、散々に曹操軍に蹴散らされ、本営の近くまで攻められている。

 こうして呂布は陳宮と共に敗戦を重ね続ける。その戦は奇襲・夜襲・待ち伏せ等、その後の戦略家・曹操としての名を売るに申し分ない内容だった。ついに呂布は追い詰められ、徐州の劉備を頼る事になる。謀反の発起人の一人、張バクも行動を共にしたが、弟の張超には一族や自分の家族共々城に立て篭もるように命じた。しかし8月にはその張超を包囲し、12月についに陥落。張超は自害し、張バクの一族は皆殺しにされた。張バク自身も袁術に救援を求める途中で部下に裏切られ、殺されている。

>>次へ


実録!曹操の呂布退治