荀イクの進言で天子を迎えた曹操はエン州一帯を制圧し、一大勢力にのし上がろうとしていた。一方徐州では陶謙亡き後、劉備が後任として、そこを守っていた。これに敵意を剥き出しにしたのは、二袁の一人袁術だった。劉備はこれを迎え撃っているが、これより前に呂布はこの劉備を頼り、徐州に落ち延びていた。一ヶ月以上睨み合いを続けていた両軍だったが、袁術は留守を守っていた呂布に使者を出し、兵糧を持たせ、反旗を翻せばこれ以上の援助も厭わないという策にでた。呂布はこれに応じ、下ヒの防衛責任者だった劉備側の曹豹も呂布側に寝返り、呂布は劉備の妻子を人質に本拠地を強奪してしまう。実は張飛も同じく留守を守っていたが、自分より陶謙配下だった曹豹が責任者という事が納得できずに曹豹を殺そうとしていた。曹豹はこの事が原因で呂布側に寝返ったのだ。
劉備はすぐに本拠地・下ヒに帰り、呂布に和睦を申し込む。呂布もこれを受け妻子を解放、劉備を小ハイに駐屯させて、自らを勝手に徐州刺史と称した。劉備が小ハイに来た事を知った袁術はここに兵を挙げ、一気に劉備打倒を狙ったが、呂布がまたまた寝返り、劉備側に加勢したのだ。その際呂布は攻撃をせずに、敵武将の紀霊等を呼び宴会を開いて、得意の弓術を披露した。この見事な弓さばきに驚いた袁術軍はすぐに軍を退いたという。小ハイにいた劉備はこの間に一万余の兵を雇って、軍備を強化していた。呂布はこれに不安を抱き、再び劉備討伐の兵を向ける。たまらず劉備は東に落ち延びていった。ここで劉備を迎え入れたのが曹操だった。
一方袁術はあろうことか自ら皇帝を称し、年号を改めた。その上で呂布と再び手を組み、曹操・袁紹に対抗しようとした。そこで呂布の娘を息子の嫁に迎えたいと使者を送った。呂布は喜び嫁を旅立たせたが、そこにこの情報を聞き、横槍を入れたものがいた。陳珪である。
陳珪は袁術の悪事を順を追って並べ、これと組めば逆賊のののしりを受けると説いた。呂布もここで以前袁術が自分を門前払いしたことを思い出し、後を追って連れ戻し、使者を殺したという。してやった陳珪は続いて息子の陳登を許都に送り、曹操と内通の約束までしている。ここで曹操は一旦呂布に左将軍の位を上奏して与えている。何故か?苑の張シュウに散々にやられた為である。