信頼と猜疑心の狭間


 陳宮は篭城中でも諦めずに進言し続けた。呂布の降伏を良しとしなかったのも、自分は曹操を裏切った身分であるため、降伏しても命はないと悟っていたからだと思われる。
 曹操軍の兵士が遠征と度重なる戦で疲れていると思った陳宮は
「曹操軍は疲れきっています。ここは両面作戦を取り、将軍が歩兵・騎兵を率いて外に出て、私が残りの軍勢で城を守りましょう。敵が将軍を攻めた時は、私が打って出て、敵の背後を突きます。将軍は外から援護してください。これを繰り返せば、十日も待たずに敵を破る事がでるでしょう」
 呂布はこれに賛成したが、またしても呂布の妻が口を出した
「陳宮は昔、曹操に我が子の様な待遇を受けながら、見捨ててます。現在将軍は陳宮をわが子の様に扱っていますが、それでも曹操ほどではありません。それでも将軍は私達家族を置いて、単独で外に出ようとおっしゃるのですか」
 この言葉で呂布は方針を取りやめたという。

 一方曹操軍の実態はどうだったのだろうか?実は陳宮の考えた通り、曹操は兵士の過労と疲弊を考え、撤退を検討していたのだ。それに猛烈に反対を唱えた者がいた。郭嘉と荀攸である。郭嘉は項羽の敗退を例に上げ
「呂布と言えども、項羽程ではありません。おまけに今、奴は項羽以上の窮地に追い込まれてます。勝ちに乗じて、ここで攻撃すれば必ず奴を生け捕りに出来ましょう」
 と言い、荀攸は
「呂布は勇猛ですが、知略がありません。今その鋭気はすっかりくじけています。大将にやる気がなければ、軍の戦意はなくなります。また参謀の陳宮は知略はあっても決断力がありません。呂布が気落ちして、陳宮の作戦が定まらない今こそ勝負をかける時です」
 と進言した。これに曹操は思い直し、シ水・キ水の堤を切って下ヒを水攻めにした。こうして包囲から三ヶ月、水攻めから一ヶ月経過した時、呂布の武将の候成・宗憲・魏続らが陳宮を縛り上げ、部下共々投降して城門を開放した。呂布は側近と共に城門まで上がり、最後まで抵抗したが、ここも包囲されると、諦めて自ら降伏している。陳宮は呂布をこう評している

「呂布は勇猛であったが、策略に欠け猜疑心が強かった。将軍達の心もバラバラで疑いあうだけだった。結果としてどの戦でも負けることが多かったのだ」と。

>>次へ


実録!曹操の呂布退治