劉備の誤算


袁紹への先制攻撃と同時に、曹操はゾウ覇に命じて青洲に侵攻させ、斉・北海・東安の各地を攻略させる一方、于禁の部隊を黄河のほとりに駐屯させ、相手の侵攻に耐えさせた。
9月には自ら軍を率い官渡の守りを固めた上で、自分は一旦許に戻った。張シュウが降伏してきたからだ。実はここにも袁紹Vs曹操の余波の影響があった。
袁紹は曹操を苦しめていた張シュウに招請の使者を送り、同時に参謀の賈クにも書簡を送って自軍に招こうとしていた。もちろん張シュウは承諾するつもりだった。しかし袁紹側の使者との会見の場に現れた賈クは独断でこれを断り、使者を勝手に帰らせてしまう。驚いたのは張シュウだ。しかし賈クは冷静に分析し、張シュウに説いて見せた。
「第一に曹公は天子を奉じて天下に号令してます。第二に袁紹は強盛を誇っている。こちらが僅かな手勢で従ったのでは、軽く扱われるに決まってます。それに比べて曹公の方は兵力が劣っている。我々が馳せ参ずれば、歓迎される事は請負です。第三に曹公には覇王の志があります。その器量からして、過去の私怨(曹昂・曹安民・典イ殺害)など、すぐに放棄して、徳を天下に示す事でしょう」
この進言で張シュウは曹操に降伏する事になる。曹操は息子と従兄弟、そして懐刀を討たれた恨みを捨て、賈クの手を取り、降伏を喜んだと言う。

12月、ついに曹操は程イクを守りに任せ、官渡に出陣していった。しかし、曹操にはまだ、袁紹との戦いに集中できない心配事があった。側面と背後に悩みの種があったのだ。少し前に話を戻そう。呂布に追われて、徐州から曹操の元に身を置いた人物がいた。劉備玄徳だ。劉備は袁術が再起不能の大打撃を受けたのを知ると、曹操に追撃を許され、総大将として袁紹を頼り北上しようとしていたこれを追った。これを聞いた程イクと郭嘉は必死に諌めたが、後の祭だった。程なく、袁術は病死し、劉備は反旗を翻し、徐州刺史の車冑を殺害し、関羽に下ヒを守らせ、自らは小沛に帰還した。出陣する前に董承らと共に企てた、曹操暗殺計画まで露見し、曹操は関係者を皆殺しにしている。
200年正月、曹操は官渡に布陣していながらも、劉備討伐を検討し始める。これに諸将は猛反対した。徐州に軍を向け、その隙を袁紹に突かれれば、ひとたまりもない。ましてや、今の状態でも数で劣る曹操軍には当然の反発だった。しかし曹操は諸将をこう諭した
「劉備は何と言っても豪傑だ。ここで叩いておかなければ、後々恐るべき存在になることは間違いない。袁紹は野心こそ大きいものの、動きの鈍い男だ。今度も動きはせんよ」
郭嘉もこの意見に賛同し、袁紹の大軍を迎え撃つ前に、東征の軍を起こす事になった。一方反旗を翻した劉備に呼応するように、周辺の郡県はこぞって劉備側についた。その兵力は数万。劉備はさらに腹心の孫乾を派遣し、袁紹と結んだ。曹操が派遣してきた劉岱と王忠の軍を散々に蹴散らした。
劉備は、大敵袁紹と対峙している曹操がまさか自分を攻めるはずはないと踏んでいた。ところが物見の兵が曹操本軍の襲来を告げると、それでも信じられず、自ら数十騎を従えて敵陣を眺めた。すると報告通り曹操本人の軍旗を見つけ、兵士も残して逃げていったという。ここで曹操は劉備の妻子と関羽を捕らえたのだ。

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実録!官渡の戦い