軍師達の嘆き


劉備は袁紹を頼って、北へ逃げた。青洲刺史の袁譚はかつて劉備が推挙した人物だった為、袁紹は親子共々これを歓迎したという。関羽は曹操に厚遇され、偏将軍に任命され官渡にも出陣している。この間、袁紹陣営は何をしていたのか?

袁紹は曹操討伐の覚悟を決めていた。しかしこれを沮授と田豊は必死に諌めていた。
「例年の遠征で領民の民は疲弊しております。穀物の蓄えはなく、まことに憂うべき事態です。急務なのは、天子に戦利品を奉じる事・食糧の増産に努めて人民の負担を軽減する事、この二つに尽きます。この朝廷との接触に失敗すれば、その時こそ曹操の妨害である事を明らかにすべきなのです。その後で徐々に黄河南岸に拠点を作り、船舶・武器の増強に努めた上で、精鋭を派遣するのです。こちらはゆっくり構えて、敵を東奔西走させるーこの状態で三年もすれば、戦わずして天下を平定させる事が出来るでしょう」
一方、交戦派の審配と郭図はこう意見する
「兵法書にも”十倍の兵力があると時は敵を包囲し、五倍ならば攻めまくり、互角の時は全力を尽くして戦う”とあります。我が君の類まれな武勇と、加うるに、わが北方の強大な兵力があるのですぞ。曹操など赤子の手をひねる様なもの。今こそ行動を起こさねば、二度と機会は巡ってきませんぞ」
だが沮授も引き下がらない。
「戦乱を救い暴虐を誅滅する、これを『義兵』と言いますが、多勢を頼み強大さを鼻にかけるのは『騒兵』であります。義兵であれば向かうところ敵無しですが、騒兵では滅亡あるのみ。今や曹操が天子を許都に迎え、大義名分を手にした以上、我が方が南征の軍を起こすのは義兵とは言えません。兵法の極致にあって、力の強弱は絶対的条件ではありません。曹操の統制は行き届き、公孫賛などとは訳が違います。絶対安全の方策を捨てて名文なき戦を仕掛けるのは、まったくもって我が君のおためにはならないと存じます」
しかし郭図はさらに反論する。
「相手は曹操です。これを討つのに大義名分がないとは言わせません。今や勇猛果敢な我が軍は将兵共に怒りに燃え、はやりにはやってます。このまたとない機会を見逃すとは、なんたる不見識。”天の与うるを取らざれば、かえってその咎を受く”と言う。沮授殿の計略は現状維持の消極策であり、情勢の変化に対応するものではありません」
ここでついに袁紹は決断する。
交戦派は勢いに乗じて沮授の追い落としを図った。
「彼は政治・軍事を把握し、全軍に睨みを利かせてます。今でさえそうなのですから、将来我が君はどうやって抑えるつもりですか?」
袁紹はにわかに彼を疑いはじめ、彼が持っていた権限を三分割し、沮授・郭図・淳于瓊にそれぞれ分け与え、南征が開始されたのだ。

では曹操が劉備討伐の遠征に出ている時に袁紹は何をしていたのか?従軍していた田豊は、この機に背後を突くよう進言していた。しかし袁紹は息子の病を口実に出兵を許さなかったのだ。田豊は手にした杖を地面に叩きつけて悔しがったという。
「こんな絶好の機会は二度とないと言うのに、たかが赤ん坊の病気で見送るとは…。あぁ何たる事だ」


そして200年2月、両陣営はいよいよ全面対決に入る。

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実録!官渡の戦い