白馬と延津


200年2月、ようやく袁紹が動いた。

郭図・顔良・淳于瓊が東郡太守・劉延の守る白馬の攻略に向かわせる一方、自らは主力軍を率いて黎陽に進出し、そこから黄河を渡る構えを見せた。袁紹はまず顔良を指名して、先鋒とさせ白馬を攻撃させるが、沮授はまたも反対する。
「顔良は偏屈な男、勇猛ではありますが、彼一人に任せるのは危険です」
しかしここでも袁紹は聞き入れなかった。
4月、曹操は白馬の救援に向かおうとしたが、荀攸がこれに反対し進言した。
「我が方は兵力が少ないので、まともに戦ったのでは勝ち目はありません。ここは敵の勢力を分散させるのが上策でしょう。そこで、ひとまず延津に兵を進め、黄河を渡って敵の背後を突く様に見せかけるのです。袁紹はそれにつられて主力を西に向けてくるに違いありません。その間に、我が方は軽装の機動部隊で白馬にに急行し、敵の手薄を突くのです。これなら顔良とて生け捕りに出来ますぞ」
曹操はさっそくこの策を実行に移した。
袁紹は、曹操軍が渡河したとの知らせに、すぐさま軍を二手に分け、主力を西に向かわせた。すかさず曹操は機動部隊を率いて、昼夜兼行で白馬を目指した。あと十余里と迫った時、ようやく顔良はこれに気付き、大慌てで臨戦態勢に入ったが、曹操軍の先鋒は張遼と関羽だった。中でも関羽は顔良の旗印を見つけると馬に鞭打って単身近づき、大軍が見守る中で顔良を刺し、その首を取って見せた。そのあまりの強さに恐れをなした袁将軍の諸将は関羽に挑もうとしたものはいなかったという。この関羽の働きで、白馬の包囲を解いた曹操は、城内の人民をよそへ移住させてから、黄河に沿って西へ引き上げてきた。こうして白馬の戦いは奇襲と関羽の活躍で、曹操軍が圧勝した

一方袁紹は全軍に渡河を命じ、引き上げてくる曹操軍を迎え撃つ作戦を取った。延津の南まで追って、ここに陣を構えた。曹操も軍をまとめ、小高い丘に陣を構えた。延津での第二ラウンドだ。
敵の動きを監視させていた兵が五・六百の兵がやってくると叫んだ。しばらくして、今度は騎兵が増えた、歩兵は数え切れませんと叫んできた。ちょうどその時、曹操軍の輸送部隊が西へ移動していくのが、見えた。諸将は
「これはまずい。敵の大軍が迫っている。早く戻せ」
と口々に言ったが、荀攸だけは
「今こそ敵を捕捉する好機。ここで逃げてはなりませぬぞ」
と進言した。曹操は、我が意を得たとばかり、荀攸を振り返って笑ったという。つまり曹操軍は輸送部隊を餌に、敵の側面から襲い掛かろうとしたのだ。袁紹軍はこの軍を文醜と劉備に率いさせていた。彼らは五・六千の兵を従え、今にも輸送部隊に襲い掛かろうとした。そこに曹操の号令の元、丘から奇襲してきた兵に散々に蹴散らされ、文醜はここで討ち取られてしまう。曹操軍の数は僅か六百騎に満たなかったという。またしても袁将軍は大軍を用いながら、小数の曹操軍に敗れ去ってしまった。

白馬と延津で行われたこの二つの戦いが持つ意味は大きかった。袁将軍は名だたる名将であった顔良と文醜という二人の武将を失い、曹操軍の奇策を嫌と言う程見せられた。袁将軍の兵士達は大いに震え上がったという。かくて曹操は官渡に引き返し、袁紹も改めて官渡の北に布陣した。ちなみに気付かれた方もいるだろうが、延津で劉備に遭遇した関羽はここで曹操軍と別れている。

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実録!官渡の戦い